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日比谷線の女 Vol.4

日比谷線の女:ディープな街・上野に住む先輩と、禁断の社内恋愛に目覚める

翔太の住まいは上野で、駅から歩いて約10分の1LDKマンションだった。家賃は約14万円と同じ会社に勤めているにしては、少し高いのではないかと思っていたが、社会人になった頃に始めた株取引でそれなりの利益を出しており、生活にはゆとりがあると言っていた。

タワマンに住むお金持ちの男としか付き合わないと思っていた香織だったが、翔太の大らかな人柄とその笑顔を前にしたら、自分のそんな野望がちっぽけに思えた。

翔太は美術館と博物館が好きで、いつでも気軽に行けるよう上野で部屋を探したそうだ。だから彼とのデートはもっぱら上野公園だった。ただぶらぶらと公園内を散歩するだけの日もあれば、東京都美術館の「オルセー美術館展」で絵画鑑賞をしたり、次の週は国立科学博物館の日本館で忠犬ハチ公の剥製を見ることもあった。

上野動物園も国立西洋美術館も上野の森美術館も全て、初めて行った相手は翔太だ。

不忍池のスワンボートにも1度だけ乗ったことがある。「ベタなデートがしたい」と言って、嫌がる彼を説得しピンクのスワンボートに乗った。

—幸せってこう言うことかもしれないー

翔太との関係が始まって半年が経とうとする頃、上野公園で手をつないで歩く彼の横顔を見上げながら思った。すごくお金持ちじゃなくても、普通に温かい家庭を築くことが自分には向いているのかもしれない……。そんな思いは彼とのデートを重ねるほどに濃くなっていった。

ちょうどその頃、東京で初めて付き合った篤志が、愛宕グリーンヒルズから、完成したばかりの東京ミッドタウン・レジデンシィズに引っ越したらしいと真希から聞かされた。

あのタワマンでの短いながらもキラキラした生活を思い出し、香織の心に未練のようなものがあるのも事実だったが、そんな考えはすぐに頭から振り払った。

翔太の好物ははとんかつだった。上野に住み始め、とんかつ発祥の店と言われる『ぽん多本家』に行って以来とんかつに目覚めたらしく、香織もよく連れて行かれた。時には足を伸ばして蔵前の『すぎ田』や、浅草の『ゆたか』にも行った。

付き合っていたのが寒い時期だったからということもあるのだろうが、上野界隈の鍋料理の店に行くことも多かった。

すき焼きなら『江知勝』、馬肉の『桜なべ 中江』、かに大根鍋に感動した『牧野』、初めてすっぽんを食べた『浅草 つち田』などの店はよく覚えており、今でも寒い時期には行きたくなるお店だ。

『鮨 一心』では赤酢と塩の正統派江戸前を知り、アメ横ガード下の『大統領』に行ってからは、それまでは苦手だったいわゆるワイガヤな店も好きになった。

翔太との関係は、会社では真希以外誰にも話していなかった。いっそのこと早く公表しても良いのではないかと思うこともあったが、社内恋愛の怖さと面倒臭さもなんとなくではあるが知ってもいたので、その考えはすぐに消えた。

彼が他の女子社員と仲良く話している姿を見ると嫉妬したが、社内で人気の彼と、実は付き合っているのだと言う事実は香織を優越感に浸らせた。

だから香織は、社内では翔太と目も合わせないくらい慎重に交際を続けた。その分、彼の家で2人きりになった時は存分に甘え、そのメリハリもこの恋の醍醐味となったものだ。

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日比谷線の女

過去に付き合ったり、関係を持った男たちは、なぜか皆、日比谷線沿線に住んでいた。

そんな、日比谷線の男たちと浮世を流してきた、長澤香織(33歳)。通称・“日比谷線の女”が、結婚を前に、日比谷線の男たちとの日々、そしてその街を慈しみを込めて振り返る。

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