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日比谷線の女 Vol.4

日比谷線の女:ディープな街・上野に住む先輩と、禁断の社内恋愛に目覚める

香織は次第に、毎週のように翔太の部屋に泊まるようになった。

玄関を入ると10畳ほどのLDKがあり、その奥は6畳の寝室だった。リビングと寝室の間に壁はなく、3枚の引き戸で仕切るようになっており、普段はそれを開けたままにして、空間を広く使っていた。

リビングには恵比寿の『パシフィック・ファニチャー・サービス』で買ったと言う大きなソファとテーブルのほか、天井まで届きそうな高さの本棚があり、そこには小説、ビジネス書、アフリカのどこかの部族の写真集などが収まっていた。

本の間には植物や写真立てに入れた友達との写真、何かのフィギュアなんかが点々と配置され、インテリアにこだわりがあることが伝わってきた。

少しの調理スペースしかない2口コンロの小さなキッチンで、香織が腕を振るうこともあった。手料理はそんなに得意ではなかったが、翔太のためにと頑張ったものだ。

食材はJRの駅ビルに入っている『ザ・ガーデン』で買うことが多かったが、遅い時間になった日は24時間営業の『マルエツ』へ行っていた。

アメ横センタービルの地下食品売り場へ行くこともあったが、何かを買った記憶はほとんどない。日本とは思えないアジア感たっぷりの店内には、いざ買ってみてもどうやって使えばいいのかわからないような缶詰や調味料ばかりが並んでいるからだ。異国感を味わうためにたまに足を運んでは「すごいね」と言って彼と笑いあっていた。

翔太は「お互い自分の時間も大切にしようね」とよく言っていた。香織が週末に泊まりに行くのはいいが、それは2連泊が限度だったようだ。

連休の時なんかに3泊しようとすると、はっきり「帰ってくれ」と言うことはないが「あんまり長く家を空けとくものよくないよ」と言って香織を帰らせようとした。

他の女の存在を疑ったこともあったが、単純に人と長く居るとストレスが溜まる性格のようだった。

翔太との関係が始まって半年を迎える頃、彼に海外支店への赴任話が持ち上がり、翔太はガッツポーズをして喜んでいた。海外で働くことが入社当時からの夢だと、もう何度も聞いていたが香織の心境は複雑だった。

最初の赴任先はバンコクだった。それについて、彼からの相談はなく決定事項として告げられただけだった。「何年になるかわからないけど、できるだけ長く海外で経験を積めるよう頑張るよ」と瞳を輝かせながら話す彼を、責め立てたり問いただすことはできなかった。

「付き合おう」と言う言葉を交わさなかった2人には、明確な別れの言葉も必要なかった。

「行ってくるよ。お互い頑張ろうな!」

それが彼からの最後のメールとなった。返信はせず、香織は携帯から翔太の名前を消去した。

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日比谷線の女

過去に付き合ったり、関係を持った男たちは、なぜか皆、日比谷線沿線に住んでいた。

そんな、日比谷線の男たちと浮世を流してきた、長澤香織(33歳)。通称・“日比谷線の女”が、結婚を前に、日比谷線の男たちとの日々、そしてその街を慈しみを込めて振り返る。

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