愛に泳ぎ疲れた女たちが、辿り着いた対岸とは?
夜24時半。そろそろ寝ないと、と思いつつ、うつらうつら寝室で読書をしていた陽子の耳に、娘の春香が帰ってきた音が聞こえた。
陽子は、帰ってきた娘に一言「おやすみ」を言おうと身を起こした。隣で寝ている夫をちらりと見やると、もうスウスウと寝息を立てて気持ち良さそうに寝ている。起こさないように、そっと寝室を出て階段を降りると、音楽が聞こえてきた。
あれ…これって……? 懐かしい、なんだっけ? リビングのドアノブに手をかけながらふと動きが止まった。
♪…この愛に泳ぎ疲れても
もうひき返せない
…
この瞬間、陽子は一気に過去に引き戻された。
1994年、陽子は迷っていた。大学4年生の22歳、来年は社会人。大学を卒業すれば大手商社の総合職として入社が決まっていたし、華やかな陽子の周りにはいつも友達が溢れ、端から見れば前途洋々以外の何ものでもなかった。
だが12月24日の朝、白んでいく朝ぼらけの空を、陽子は憮然とした表情で見つめながら身動きできずにいた。
時は3時間前に遡る。夜中にふと目を覚ました陽子は、寝ぼけつつも隣で寝ているであろう恋人の晃を手で探った。いない……? 部屋を見渡してみると、シャワーの音がする。なんだ…、シャワーを浴びているのね。
昨夜のデートの幸せを反芻していると、晃が部屋に入ってくる足音が聞こえ、寝たふりをする。そのままベッドに潜り込んでくるはずだと、陽子は可愛く見えるように寝顔をドアに向けた。
ところが、予想に反し晃は身支度を始めている。そそくさとズボンを履き、カチャカチャとベルトをはめながら部屋を出て、そのまま玄関を開けて行ってしまったのだ。
何が起きたのか、咄嗟に判断がつかない。陽子はベッドから起きだし、窓の外を見つめた。
まだ暗い闇夜を、車のヘッドランプが切り裂いて、あっという間に遠のいていく。そして、また闇夜が戻った。
また、なの? イブもクリスマスも、絶対に一緒だよって約束したのに。
この間の陽子の誕生日、仕事で一緒にいられなかったから、今度は絶対って言ったのに。
何度も確認する陽子に、昨日も「しつこいなぁ。もちろん陽子のために空けてあるよ」って言っていたのに。
晃が陽子に向けた昨日の笑顔と、こっそり出て行った男の狡さが、受け入れきれぬ勢いで怒濤のように押し寄せてきて、陽子は涙を流した。
空はすっかりと明るくなり、よろよろと立ち上がった陽子はコーヒーカップを取り出し、そのままいつもの癖でラジオをつける。
ああ、まただ。コーヒーカップをつい二つ取り出してしまったことに気づき、陽子はまたもや涙を堪えきれなくなる。
大学に入学したての頃、キャンパスのメインストリートを歩いていたときにサークルに誘ってきたのが4年生の晃だ。そのときの笑顔は今も変わらないのに、そして、私も変わらず、ずっと彼のために尽くしてきたのに。
♩…この愛に泳ぎ疲れても
もうひき返せない
ふたつの足跡
失くすものなんて 思う程ないから
そう 裸の自分になって
愛を計るより… 愛したい
ラジオから流れてきた歌詞に、陽子はハッとした。愛されていないから、愛を計るようなことばかりしてしまうのだ。
自分が疲れていることは、もうとっくの昔から気付いていた。この愛はもう引き返せないところまで膿んでいて、ただの執着でしかないことも分かっていた。そんな自分の境遇を客観的に唄われた気がして、陽子は心底惨めな気分になった。
もうダメだ。限界。なのにどうして、まだ彼からの連絡を待ってしまうのだろう。