愛に泳ぎ疲れた女たちが、辿り着いた対岸とは?
幼なじみの広司との家は、歩いて10分くらい。ずっと行き来してきたこの道を、春香はいつもとは全く違う気持ちで向かっていた。心が焦り過ぎて、知らず知らず、走り始めていた。
広司の家の近くの川沿いがふたりの昔からのデートコースだった。「川のところで」で通じるいつもの待ち合わせ場所に、広司が寒そうに肩をすくめて待っているのが見え、大きな背中めがけて、春香はいっそう足を早めて飛びついた。
「お、おい! めっちゃビビったぞおい! なんなんだお前、夜中に呼びつけて、センチメンタルか」と体を向けようとした広司は、春香の意外に強い力に驚いた。
春香は腕の力を弱めない。そして、背中に顔を埋めたまま言った。
「広司の夢、応援したい。やりたいことをやって欲しいし、私も東京で就職活動、頑張るよ。だからふたりで頑張ろう。そうじゃないと、尊敬しあえなくなる。じゃないとふたりがダメになる。」
春香が泣いていることに気づき、広司はそのままの体勢で答えた。
「本当にすごく悩んだんだ。でも、春香のために東京で就職するってのは春香だって嫌だろ?一緒に来て欲しいけど、連れて行ったら春香の将来を無視していることにもなるだろ?だからって、待っていて欲しいっていうのも、自分のエゴだし。春香が就職していい男に会うかもしれないし」
「会わないよ」
「とにかく、俺のエゴで春香の可能性をつぶすようなことだけはしたくない。でも……春香とは死ぬまで一緒にいたい。それは出逢った頃からずっと変わらないから」
「ねぇ。待っててもいい?」
そこでようやく広司は体を向き直し、春香を抱きしめた。春香の涙は、嬉し涙に変わっていた。
次の日の朝、陽子が朝食と二人に持たせる弁当の準備をしていると、春香が二階から下りてきた。目の下にクマを作っているものの、すっきりとした表情をしている。
ふたりの目線が交差したとき、お互いに満ち足りていることが伝わり、笑顔で「おはよう」と言い合う。春香は冷蔵庫から取り出したトマトジュースを飲みながらテーブルにつくと、音楽が流れていることに気づく。
♩…あの日のように 輝いている あなたでいてね
負けないで もう少し
最後まで 走り抜けて
どんなに 離れてても
「これ、狙って流してるよね、おかあさん。ベタというかなんというか、本当にこういう恥ずかしいこと、よくできるよね」と照れくさそうに言う春香を、陽子はいたずらっぽく微笑みながら見つめ返す。
まだ照れくささが拭えない春香は、隣で歌詞を口ずさんでいる父・幸太郎を見て、茶化すように言った。
「お父さんもロマンティックだったんだね。『114106』」
「なんだそれ?」と朝食を頬張りながら答える幸太郎はさっぱり状況が分かっていない。
曲が終わり、陽子がもう一度『負けないで』をかけようとすると、
「あ!!ヤバい!遅刻する!あ、お弁当。ありがと、行ってきます!」と、春香が慌ててリビングを飛び出していった。
続いて幸太郎も、「お!懐かしくて聞き込んじゃったな!お弁当、有難う、行ってくるね。」と言い残し、玄関に向かう。
ふたりがバタバタと駆け出していった後、リビングでひとり、陽子は微笑んでいる。夫と娘の弁当にこっそりと忍ばせた、『114106』と『5110』という番号に気付く瞬間を想像して。