婚外恋愛 Vol.8

婚外恋愛:揺らめく蝋燭の灯りの中で、どうしようもない強い衝動に駆られる。

<注記>
「婚外恋愛」は木曜連載でしたが、vol.9より土曜連載へと移行致します。

前回までのあらすじ

34歳、既婚者の”私”は、同じ会社に勤める妻子持ちの結城に好意を寄せている。一度目のデートは恵比寿で夕食を、二度目は銀座コリドー街でビリヤードと夕食を共にした。年末、国立の実家でひとり暮らす母の元で、姉と生後8ケ月の甥とひと時を過ごす。子を持つ姉の凛とした美しさに憧れつつも、結城への想いは強まる。

第7話:国立の夕日を浴びながら、夫と結城を同時に想う。

夕闇の気配を僅かに残す千駄ヶ谷の住宅街を、コツコツとプラダのヒールを鳴らして歩く。その足音が突如気になり、もうすぐ目的地だというのに、足を止めた。逸るようにバッグから2枚のチケットを取り出す。街灯の近くに移動し、現実を確かめるかのように、手に取ったそれに目を通す。

企画公演 「蝋燭の灯りによる」
素謡/蝉丸 ・ 能/弱法師
2016年1月8日(金)6:30PM 開演
【東京】国立能楽堂
【4扉】正面席 12列 10番

口角をきゅっと上げて、すぐそこの角を曲がった瞬間、品良く立ち並ぶ3本の松の木と、煌煌と輝く国立能楽堂の威容が視界に飛び込んできた。松の木の傍らに、結城さんが立っている。

「お待たせしてすみません。」
「俺も今着いたところだよ。間に合ってよかったね。」
「あ、これ。」

結城さんにチケットを渡す視線の先で、冷気のせいで赤紫に少し変色している自分の手が視界に入った。上質なカシミアのチェスターコートの袖から、レザーの手袋を覗かせ、チケットを受け取る結城さんの優雅さ。相反する己を恥じて、すぐにその手を引っ込めた。

「ありがとう。君の分も払うよ。」
「いいんです。この前の食事の御礼ですから。」

ついさっき引っ込めた手を再び露わにして、今にも財布を取り出そうとする彼の手を塞いだ。その直後、なんだか急に決まりが悪くなる。

「と言うか、それにかこつけて、お誘いしてしまいました・・・」

今更何にどぎまぎしているのか、わけのわからない女におかしくなったのだろう。結城さんが楽しげに笑って、それじゃ、お言葉に甘えようかな、と言った。

「あ・・・」

建物の中へ入らんとする時、結城さんが何かを思い出したかのように急に立ち止まった。

「明けましておめでとう。」

結城さんと会うのはコリドー街で食事して以来、1ヶ月ぶりだった。会えた喜びで浮足立っていたせいか、一番大事な挨拶を忘れてしまっていたようだ。

「あっ、明けましておめでとうございます。今年も宜しくお願いします!」

不器用な印象は否めないだろう。どうしてこうもオトナの女になりきれないのか。新年早々、嫌気がさしてくる。自己嫌悪に陥る私を気にする素振りもなく、彼は手袋を外しつつ微笑むと、私の背中にそっと左手を添え、人ごみの中を優しく誘導してくれた。


「俺らの年少者感、半端ないね。」

喜色を薄く浮かべながら、結城さんが呟いた。ふたりで初めて足を踏み入れる国立能楽堂。モダンな外観から一転、木々のぬくもりと繊細な表情を見せる場内は、とうに還暦を迎えたような観客でごった返している。場違いな感じ、というより、遠く離れた見知らぬ地に来たような感覚だ。

受付の玄関から入って右奥に位置する正面席方向へ向かう。能舞台へのアプローチは、能楽堂の入口から対角線上へと続く。巧妙に設計された空間的仕掛けにより、現実世界から少しずつ切り離されていくようだ。結城さんが、ここみたい、と指を指して4扉の前で止まった。座席番号を確認していよいよ中へ入ると、思わず息を飲んだ。

照明を極限まで落とした能舞台の周りに、蝋燭の灯りが微かに揺らめく幻想的空間が眼前に広がっている。感興深らしめるその風情に、思わずふたりで顔を見合わせ、すごい、と小さく感嘆の声を洩らした。

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