「深夜に呼ばれて、半年記念日はドタキャンされて、ラウンジの写真一枚で終わり〜!?」
馴染みの中目黒のワインバーに、大きな声が響き渡る。
「ちょっと美緒!声が大きい」
「ごめんごめん。でもさぁ〜」
深いため息をつき、ここにいない仮想の亮さんを睨みつけるのは、美緒だ。
「ドタキャンじゃないよ。前の週には教えてもらってたし」
「一週間前なら傷つかないの?」
「そういう話じゃなくて」
「ねえ〜、それ彼氏なの?時差のある上司じゃなくて?」
言い方がひどすぎて、思わず笑ってしまった。
美緒は、父の妹の娘で、つまりは私のいとこだ。
同い年だし家も近くて、幼い頃から姉妹のように育った。口は悪いけれど、私が本当に苦しい時には誰より早く気づいて、こうして私の代わりに悪態までついてくれる。
「彼氏だけど、まあ確かに、仕事のことはちゃんと見てくれてるよ」
「出た、真理恵の謎のノロケ」
「この前も、私が気に入ってたシャンパンの銘柄を覚えてくれてたし。社内公募を受けようか迷ってる話も、ちゃんと聞いてくれた」
「だからさぁ。それ、恋愛じゃなくて育成じゃない?それが本当に嬉しいの?」
「はあ…。美緒までそんなこと言う」
「他に誰がこんなこと言うのよ」
私は、昼休みの健吾くんとの会話を話した。美緒は赤ワインを一口飲み、少しだけ楽しそうに眉を上げる。
「後輩くん、いいところ突くじゃん」
「やめてよー。健吾くんは、会議が何回か一緒になったことあるくらいで、亮さんのこと何も知らないんだよ」
「知る必要ある?後輩くんが見てるのは、亮さんじゃなくて真理恵でしょ」
その言葉に、グラスを持つ手が止まった。
『俺なら――』
健吾くんが言いかけた言葉がふと頭の中に蘇ったけれど、まさか、そんなはずはない。
美緒だって、健吾くんは私の努力する姿を目の当たりにしている、という意味で言ったのだ。自意識過剰な発想が恥ずかしくなって、私は慌てて話題を亮さんに戻す。
「そりゃ私だって、亮さんに可愛く甘えられたらいいなーとは思うけど。でも…」
「でも?やっぱり上司には甘えられない?」
「でもさ。忙しい人に『会いたい』って言うの、どうしても苦手なんだよね。それが好きな人だと、特に」
口にした瞬間、黒い革の手帳が頭をよぎった。土曜日の欄の訂正線。その隣に書かれた、私の名前。
「……おじさんのこと?」
美緒は冗談をやめた。私は答えず、ワインを飲んだ。
美緒も、それ以上は聞かなかった。その代わりに、静かに答える。
「人の予定を大事にすることと、自分の気持ちを無視するのとは、違うでしょ」
「分かってる」
「分かってる女は、半年記念日に着るはずだったワンピースを未練がましく見つめ続けたりしない」
何も言えなくなった私に、美緒は「今日は飲みな」と新しいグラスを頼んだ。
「亮さんのこと、好きなんだよね」
唐突に確認され、私は答える。
「好きじゃなかったら、こんなに悩まないよ」
「じゃあ、模範解答やめたほうがいいと思うけどな。私は、真理恵の好きな人に、ちゃんと真理恵のこと知ってもらいたい」
「模範解答?どういう意味?」
「模範解答は模範解答だよ。『大丈夫』。『仕方ない』。『応援してる』。忙しい男にとって都合のいい回答。真理恵のLINE、AIみたい」
昼間、健吾にも似たことを言われた。正しい理由ばかり探している、と。
「そんなこと…」
と言いかけた言葉を、ワインと一緒に飲み下す。
違うと言い切れないことが、なぜだかものすごく悔しかった。
店を出たのは、23時を少し過ぎた頃だった。
亮さんからの連絡は、空港の写真以来ない。
シンガポールと東京の時差は1時間だから、向こうは今は22時過ぎだ。ショートスリーパー気味な亮さんがもう眠ってしまっているとは思えなかった。
『打ち合わせ、どうだった?』
送ろうとして、消す。
『いつ帰ってくる?』
それも消した。
聞けばいいだけなのに、返事が来なかった時の自分を想像すると、どうしても送信できない。
スマホをバッグにしまい、タクシーの窓に額を寄せる。流れていく東京の灯りはどれも、私以外の誰かにとっての待ち合わせ場所に見えた。
田町のオフィスから私の住む目黒のマンションまでは、タクシーで15分ほどだ。
郵便受けも覗かずに、オートロックのエントランスを通り抜ける。夜の間は少し明かりが落とされ静まり返った内廊下を歩きながら、今度こそ亮さんに伝えようと思った。
寂しかった。
半年の日を楽しみにしていた。
写真1枚でご機嫌取りができたと思わないでほしい。
醜く渦巻く私の本当の気持ちを、美緒が言う“模範解答”にならないギリギリの清潔な言葉に整えようともがいていた、その時。
バッグの中でスマホが震えた。
― もしかして、亮さん?
今度はどんなLINEだろう。「おやすみ」の一言?それとも、ホテルの部屋の写真とか。
取り出したスマホは、送り主がやっぱり亮さんだったことを示していた。
画面に『亮さん』の字が光っているだけで、暴走しかけていた黒い気持ちが小さく折りたたまれてしまう。やっぱり、“好き”は私を弱くするらしい。
だけど、メッセージを開いた瞬間。私の胸に沸き起こってきたのは、ただただ甘美な喜びの気持ちだけじゃなかった。
手の中のスマホに、短いメッセージが光る。
『今、家の前』
「…え?」
歩く足を止める。
スマホから視線を上げる。
廊下の先。自宅のドアの前に、見慣れた濃紺のコートが見えた。
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帰国するなり、突然現れた亮。会えた喜びと怒りの間で、真理恵は初めて「会いたかった」と口にするが――。






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