「ごめん」
あの夜。運転席の豪くんは、悲しい顔で下を向きながらそう言った。そして少しの沈黙の後…小さな声で続けたのだ。
「少し、考えさせてほしい」
と。
いつまでも深夜の初詣から戻らない私を心配したのだろう。父が玄関のドアから出てくるのが見えたことで、その場はすぐに解散になった。
「また連絡する」
これだけ時間が経ってしまうと、豪くんが去り際に運転席の窓からそう言ってくれたことが、夢だったようにも思えてくる。
もしかしたら、夢だったのかもしれない。豪くんのことが諦めきれない私の、悲しくも都合のいい夢。
― やばい、泣きそうかも。
みじめさで、深い穴のような悲しみに吸い込まれそうになる。慌ててふとんを跳ね除けて、心の中で唱えた。
― ダメダメ!眠れない夜に必要なのは、涙じゃなくて熱い出汁でしょ。今の私は、それを知っているじゃない。
パジャマを脱ぎ捨て、ゆったりとしたバレルデニムに履き替える。ウールのニットにテディコートを重ねる。また深夜のおでん屋さんへと出かける準備だ。
温かいものをお腹に入れれば、きっと元気が出るはず。
そうしたら…そうしたらまた、夜の勢いに任せて豪くんにメッセージを送るのだ。
― そうだよ。少なくとも、ブロックされてないってことは分かったんだし。さすがに3週間も待たされてるんだから、こっちから1回くらい連絡したって全然…。
最低限の身支度を整えた私は、そうやって自分を鼓舞しながら、ベッドに放り出していたスマホを拾い上げる。
そして、何気なくタッチした画面に目をやり──「えっ!」と小さな悲鳴をあげた。
だって、今はもう深夜の1時だというのに。
少しのあいだ目を離していただけなのに。
『市子、まだ起きてる?』
私のスマホには、そんな豪くんからのメッセージが届いていたから。
◆
おでんを食べるために身支度を整えた私は、だけど結局、お店には行かないことにした。
出かけるのをやめたわけじゃない。行き先が急遽、変更になったのだ。
『酒と麺 タイノタイ』。
深夜の3時まで営業しているというその店は、私の家から10分少し歩いた池尻大橋にあった。
どうやら海鮮居酒屋らしいけれど、カウンター席もありスタイリッシュで洗練された雰囲気で、いかにも豪くんに似合う感じがする。
ほんの15分前。
『起きてるよ』
胃と心臓が握りつぶされそうな感覚に負けじと、すぐにメッセージにそう応えると、豪くんからの返事もすぐに返ってきた。
『こんな夜遅くにごめん。もしよかったら、今から会えないかな。市子には、会ってちゃんと説明したくて』
そうしてここに呼び出され、私は今1人でお店の片隅のテーブル先に座っているのだった。
― 説明、かぁ。
その事務的な言葉の響きから、話の内容はうっすらと推察できた。まだ好き、という気持ちには、“説明”という響きはあまりにも事務的すぎる。
「すみません。私、お酒飲めなくて…。ジンジャーエールをいただけますか」
店員さんにソフトドリンクを注文しながらふと、クリスマスの頃に夜の新宿で見かけた女の子の姿を思い出す。
勇気を出してLINEした日、夜中までお鮨を食べていたという相手は、なんとなく彼女が相手なような気がした。
お酒が飲めない私を居酒屋に呼び出すことにも、きっと意味があるのだろう。意味というより、説得力みたいなことかもしれない。
でも…。
『市子には、会ってちゃんと説明したくて』
豪くんが私に対して誠実でいてくれることは、やっぱり清々しいような気持ちだ。
外には真っ暗な夜が広がっている。店を出てしまえば、帰り道の涙は誰にも見られない。
― せめてお店にいるあいだは、絶対泣かないようにしなきゃ。
運ばれてきたジンジャエールを一口飲みながらそう決意した時、入口から豪くんが駆け込んでくるのが見えた。
「ごめん、待たせちゃった。十番からタクシーで飛ばしてもらったんだけど」
「あ…ひさしぶり」
豪くんは、緊張で硬くなった私の挨拶を無視したまま、慌ただしく私の向かいに座る。そして席につくなり、大きな声で信じられないことを言ったのだ。
「すいませーん!真鯛旨塩ラーメン、ふたつお願いします!」
張り裂けそうな切ない気持ちを抱えていた私は、思わず素っ頓狂な声を上げる。
「え?ラ、ラーメン?」
「ごめん、勝手に注文して!でも市子、20時以降食べないっていうのやめたんだよね?」
「う、うん。実はさっき連絡もらった時も、1人でおでん食べに行こうと思ってたくらい」
想像していたのとはまったく違うとぼけた会話に、調子が狂う。けれど豪くんは、そんなことは全く気にならないらしい。
「おでん!?こんな深夜に、市子が?」
そう言いながら目の前で、わっはっは、と大声で笑い出す。その表情はまるで、ずっと欲しかったプレゼントをもらった子どもみたいだ。
もしかしたら、けっこうお酒を飲んでいるのかもしれない。
心配と同時にほんの少しだけ腹立たしいような気もしたけれど、ひとしきり笑い終わった豪くんは、お冷で喉を潤したかと思うと、サラッと口にするのだった。
「いや、そっか。よかったよかった。実はさ、付き合ってた頃は言ってなかったんだけどさ。どーーーーしてもここのラーメンを市子と一緒に食べてみたかったんだよね」
そう言われて悪い気がしないのは、いわゆる、惚れた側の弱みというやつなのだろう。
軽くて甘い物言いに、豪くんのことを好きになった高校時代のことが蘇る。
「いいね。廣田さんと結婚したら楽しそう」
卒業文集に「将来の夢:結婚して幸せな家庭を築くこと」と書いた私に、嫌味なくサラッと言ってくれた豪くん。
あの頃から全然変わっていないこの人が、私はやっぱり、どうしようもなく大好きなのだ。







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