ミチを好きになるまでだって、いくつかの恋をして、愛し愛されてきたと思う。愛を知らずに育ったからこそ、手探りだけど、必死に、正直に、想いを言葉にしてきた。けれど、ミチにだけは――伝えるのが怖いのだ。
元恋人のメグが訪ねてきても、ともみに向けられるミチの視線が親密になっていくことにも、ただ傍観者でいるべきだと、自分に言い聞かせてしまっている。
― でも、今日はもういいや。……考えたくない。
母との別れ、その母をともみに押し付けてきてしまった罪悪感、募るばかりのミチへの想い。ぐちゃぐちゃでまとまらない全てを、美味しいカレーとお酒でごまかしてしまいたい。
「おかわり、ください!」
授業中に挙手した小学生男子(低学年)のようにはつらつと言い放ったルビーに、ミチが眉を寄せた。
「大盛はもうダメだ。半分にしとけ」
そっけなくカレーをよそい始めたミチの大きな背中を見つめているだけで、なぜかまた泣きたくなってしまい、ルビーは慌ててその気配を振り払った。
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同じ頃のBAR・TOUGH COOKIES
Customer 7:小酒井明美(こさかいあけみ・44歳)/娘のルビーを捨てた母親
愛おしいはずの娘…ルビーの顔をみるとPTSDの発作を引き起こす。幼いルビーを思い浮かべれば、なんと残酷な状況なのだろう。ともみは歯がゆい気持ちで聞いた。
「施設に入る前に…迎えに行くことはできなかったんですか?」
「行ったんです。でも…ダメでした」
「ダメ…とは」
そう聞いてから、ともみは今更ながらとハッとしてしまった。
「すみません、こういう風に思い出させてしまうことも、ダメだったりするんではないでしょうか」
「完治することはないと言われているんですけど、今はもうほとんど大丈夫になったというか…過去のことを話しても、発作的なものは出なくなりました。でもそう言えるようになったのもつい最近で。お医者さん曰く、最初のトリガーは、ルビーちゃんとあの人が…父親が似ている、ということからだったんですけど…」
「私が弱すぎたから………随分長い時間がかかってしまったんです」
明美の表情が痛みに耐えるように歪んだ。
「数年たっても症状がなかなか改善しないことを、お医者様には、罪悪感によっても症状が引き起こされ始めていると言われました。ルビーちゃんと離れて暮らしている自分は母として最低だ。母の死も家業が失われたことも、自分のせいだという罪悪感が、後悔すればするほど、強くなっているのではないかと」
声がかすれ、小さくせき込んだ明美にともみはお茶をすすめ、自分も、すっかり冷え切り苦みが増した白茶を、少しだけ口に含んでから、遠慮がちに切り出した。
「ルビーが施設に入ることになった経緯を、もう少し詳しく聞かせてもらっていいですか」
明美は小さく頷き、誰かに話すのは初めてです、と続けた。
唯一の肉親であった母を亡くし、家業も他人の手に渡ってしまい頼れず、自らは病を抱えフルタイムで働ける状況ではない。医師の判断により明美の入院は長引いてしまっていて、ルビーは明美の母が長い間懇意にしてきた、実家の二軒隣の老舗呉服屋の家族が預かってくれていたという。
「そのご家族には、ルビーちゃんと同じ年頃の女の子がいて。妹ができたみたいで楽しそうだから、いつまでだっていてくれていいのよって、おっしゃってくださいましたけど、もちろん、そういうわけにはいきません。何より私が一刻も早くルビーちゃんと暮らす生活を取り戻したかった」
お世話になるための生活費を呉服屋の家族に渡し続けながら、明美は実家の顧問をしていた弁護士に相談。すると、養育費を受け取るべきだと提案された。それが母娘の生活の足掛かりになるはずだと、アメリカに帰っていたルビーの父親の居場所を、探し出してくれたというのだが。
「私が連絡した時にはもう…遅すぎたんです。彼が提案してきた時に、たとえ手切れ金だと言われても、ルビーちゃんのためにもらっておくべきでした。私は自分の気持ちばかりを優先してしまった」と、明美は唇を噛んだ。
金はない、だから支払えないと断られたのだという。事業の失敗により、アメリカでもいくつかの訴訟を抱えているからという理由で。ならば、と弁護士は明美の母が望んでいたように、重婚を理由に民事裁判を起こして、とれる限りの賠償金を勝ち取り、養育費に回そう、と提案した。
「勝っても数百万かもしれないけれど、罪を犯した人が裁かれないのはおかしいし、闘ってその先の交渉につなげましょう、と弁護士さんはおっしゃって。過去の判例なども調べ始めてくださったんですが…」
重婚の証明をするには、男性がアメリカで婚姻を結んでいた時期に、明美とも結婚していたことを法的に証明しなければならないが、アメリカには、日本のように入籍も離婚も戸籍を見れば一目で分かるというシステムが存在しない。結婚許可証(マリッジライセンス)の記録はあっても、離婚となると裁判所に届けて認められる、という流れになるため、その判決文を探さなければならないという。
そのため、“ルビーの父親が結婚を続けていた期間”を簡単には明確にすることができない。さらにアメリカでは、州ごとに制度が違う。つまり、全州の記録を調べ上げなければ「明美と結婚した時には、アメリカのどこかの州で、既に離婚していたかもしれない」という可能性を、完全に否定することはできない、ということになる。
「弁護士さんはアメリカの制度をある程度ご存じだったようで、難しいのは承知でやれるだけやってみようと、アメリカの法律事務所と連携して動いてくださいました。でも、1つの書類を取り寄せるにも、数か月必要で…訴えるための準備をするだけでも、とても時間がかかってしまって…」
そして、明美が再度裁判を起こす前に、ルビーは施設に入ることになってしまった。間に合わなかったのだ。






この記事へのコメント
って事は最後ルビーの父を光江さんが呼んで来そうな予感。
明美さんがその時既にルビーを一番に考えていたならDNA鑑定で親子関係を明らかにした上で養育費を請求するとか出来なかったのかなと。ハーグ養育費条約により国際弁護人不要で手続きも無料で出来るケースも多いのに。