「なんで私の住所がわかったの?って普通なら聞くんだろうけど、驚けないよね。光江さんにかかれば、私のことなんてなんでも調べられちゃうだろうから」
付き合っていた頃、光江は仕事のボスでありながら、自分を育ててくれた人なのだとメグに紹介している。だからメグは光江が“西麻布の女帝”であることを知っているし、政治記者だった当時、光江の人脈で、ある大臣に会わせてもらうという体験もしている。
なんか飲む?と冷蔵庫を開けて、ビールの缶を取り出したメグに、ミチは首を横に振った。
「私は飲んじゃお~」と、缶ビールを開けながら、ベッドに座るミチの側に来ると、メグはその横に少し距離を置いて座った。
ごくごくと勢いよくビールを喉に流し込み、ぷはぁ~とわざとらしい声をあげてから、メグは、少し気まずそうに、あの、さ、と切り出した。
「この前は、ごめん」
「何が」
「ちょっとおかしくなってて…酷いこと言った」
「メグがおかしいのなんて、出会った時から知ってるよ」
メグが小さく笑った。
「ミチは本当に優しいよね。優し過ぎて、私と別れたあと、変な女に引っかかっちゃうんじゃないかって、ずっと心配してたよ。離れてる間も」
「お前以上に変な女はいないから安心しろ」
それは、2人の間で数えきれない程に繰り返されてきた軽口で、いつものメグなら「それでも好きなくせに」とか、笑い飛ばすはずの、お決まりのやり取りだった。
そんないつもとは違い、顔を曇らせ、「確かに私って、ほんと変な女で、最悪な女だよね、ごめん」と、頭を下げたメグに、「どうしたんだよ?」と、ミチが聞いた。
「あの夜…朝、起きたら自己嫌悪で恥ずかしくなって。だから置手紙だけで逃げ出すみたいに帰っちゃったし、その後、ミチにも会いにいけなくなっちゃって。本当に酷いことを言っちゃったから」
「酷いことって…」
「結婚して、って言ったこと。あれは本当にダメだった。ミチが私との結婚を考えてくれてること、わかってた。それを振り切って、ミチを捨てて仕事を選んだくせに…そんな私が、絶対に言っちゃいけない言葉だった。ほんとうに、ほんとうに、ごめんなさい」
そう言うと、メグはベッドの上で抱えた膝の上に顔を伏せ、沈黙がしばらくの間、部屋を包んだ。かけるべき言葉の正解がわからないまま、ミチは溜息をつくと、メグの頬を両手で包み、顔を上げさせてから、言った。
「本当にオレと結婚したいのか?」
「…え?」
「ならいいよ、結婚しよう」
メグの瞳が落ちてしまいそうな程に見開かれた。そして我にかえったように、自分の頬を包んでいたミチの手を振り払うと、驚きのまま慌てた。
「何言ってんの?ダメに決まってるでしょ。ミチが私と結婚するなんて絶対ダメ。今の私なんかじゃ…」
ミチがくっくっ、と声を上げて笑い出す。メグを含めた数人しか知らない、表情を崩した笑い方で。
「…ミチ?」
「ひどいな」
「な、にが…?」
「なんでオレがフラれたみたいになるんだよ。プロポーズしたのはメグなのに」
メグが、はっとした顔になり、そして消え入るような声で、ごめん、と呟く。メグが興奮するといつもミチは頬を包んで落ち着かせてくれた。そのことを思い出したのだろう。
「メグは、今、結婚とか、オレとか、それどころじゃないはずだろ?」
「…ごめん」
「それにオレの前で、“私なんか”なんて、二度と言うなよ」
メグはもう一度、ごめん、と呟くと、恥ずかしそうに、「結局ミチには、かなわないんだよね」と続けた。
「ミチに会うの、もっと平気だと思ってた。でも、ミチの顔みて、ミチのジントニック飲んだらもう——なんか、色々こみ上げてきちゃって、溢れて、爆発しちゃった。
どうかしてたの、あの夜は。本当に、本当に、ごめん」
うなだれたメグの細い肩を思わず抱き寄せそうになった自分を戒めて、ミチは続けた。
「まだまともに、眠れないのか?」
メグの返事はない。けれど、その顔色、細くなった頬や顎のラインが、ミチの問いを肯定している。
帰国した経緯も、仕事を辞めた経緯も、はっきりとメグから聞いたわけではなく、今はまだミチの想像にしか過ぎない。けれどさっきの書類の山はきっと、メグが“諦めてはいない”ことを示している。
『アイツは確かに強くはない。でも最後は絶対に…自分で闘うことを選ぶ女です』
光江に放った自分の言葉を、ミチは思い出す。——ならば自分にできることは。
「合鍵はいつでも使え」
「……え?」
「オレが帰るのは朝方になるけど、いつ来てもいいから。そのまま…うちに住んでもいい」
「…いい、の?」
「飯くらいは作ってやるよ」
その大きな瞳にみるみる涙が浮かぶ。慌ててぬぐうメグから目をそらしながらミチは、「で、早速、腹減らない?」と立ち上がり、冷蔵庫を開けた。
入っていたのは、水とビールと、数個の卵。他には栄養補給のゼリーだけ。これでは何も作れない。ミチは「コンビニに行ってくる」と、財布を持って外に出た。
管理人室から手を振るカオルの前を会釈をしながら通りすぎ、マンションを出ると、4月にしては強い日差しに目がくらんだ。
― オムライスにするか。
メグはミチが作るドライカレーのオムライスが大好きで、食べれば絶対に元気が出るからと、落ち込んだときによくねだられたのだ。
きっと2人とも無邪気だった10年前とは、もう違う。ミチのメグへの想いも、既に恋情と呼べるものではなくなっているのかもしれない。けれど、できるだけのことはしてやりたい。
メグの未来が幸せであるようにと願い続けたその祈りは、いまもしっかりとミチの中にあるのだから。
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