マンションの大きさからも世帯数がそう多くないことは想像がつく。だから管理人であるカオルが全ての住人を知っていてもおかしくはないが、妙に親しげな“メグ”の響きが気になり、メグとの関係を尋ねると、カオルは「関係だなんて、やだわぁ」と笑った。
「あの子に、このマンションの部屋を貸しているのは私。私は管理人兼、大家さんなの。まあ、親から引き継いだだけだけどね」
おそらく築40年以上は経っているとはいえ、千駄ヶ谷という都心の一等地にあるマンションの資産価値はどれくらいのものだろうか。カオルの品の良さが、裕福な家庭での育ちゆえだという納得と共に、固定資産税が凄そうだなと、ミチはどうでもいいことを考えてしまった。
「メグとは古いんですか?」
「昔ね、あの子の取材に助けてもらったことがあるの。もう10年近く前になるけど。それ以来、お互いにちょいちょい連絡とりあっててね」
10年前といえば、ミチとメグが付き合っていた頃だが、取材で誰かを助けたという話は記憶になく、おそらく聞いたことがない。自分の知らないメグがあの頃にも存在していたのだと、そんな当たり前のことをミチは今更ながら思う。
「メグは…どれくらい前からここに?」
「もうそろそろ2か月になるかな。仕事を辞めて海外から戻ってきたのはいいけど、ほら、無職の一人暮らしだと、なかなか家を借りれないじゃない?それで、私のことを思い出したんじゃないかしら。うちのマンションに住みたくなったらいつでもおいでよって話は、昔からしてたし。でも彼女に頼られたのは今回が初めてよ。
無職になるんだから、家賃はしばらくいらないわよって言ったのに、あの子ったら全額払うってきかなくて。私、メグのそういう律儀なところが好きなのよね。あなたも、でしょう?」
「え?」
「ミチさんも、メグのことが好きなんでしょう?」
茶化すように、でも真っすぐに見つめられたミチは、カオルの視線に光江と同類の力を感じた。
全てを見透かしているような、目の奥の光。年齢や経験値だけでは説明できない包容力をカオルに感じながら、ミチは何も答えなかったが、カオルは気にも留めない様子で続けた。
「あなたみたいにメグを心配して来てくれる人がいてよかったわ。あの子、今、バイトの面接に行ってるんだけど、もうすぐ帰ってくると思うから」
「バイト、ですか?」
「そう。私の幼なじみがもう50年近くやってる店なんだけど。あ、ほら、ウワサをすれば…」
微笑んだまま動いたカオルの視線に、ミチがつられると、管理人室のガラス窓の向こうのロビーに立ちつくすメグと目が合った。
「あなたがなぜここに?」とわかりやすく驚いた表情で、ミチを見つめて固まっていたメグは、しばらくすると、まるで氷がとけだしたかのようにゆっくりと動きだし、ガラス窓を開けた。
「やっぱ、みつかっちゃうか~。でもなんで、カオルさんとお茶してるの?あ、カオルさんこの人、私の元カレ!かっこいいでしょ~」
「あなた、殿方の趣味はいいのねぇ、見直したわよ。メグも中国茶飲んでいく?」
「ん~。今日はいいや。その人と話さなきゃ。ミチ、もうすぐ出勤でしょ?」
時計を見ると15時近くになっていた。Sneetのオープンは18時だが、遅くとも17時には店に戻りたい。「部屋で話そう」とメグに促され、ミチはカオルにお礼を伝えると、管理人室を出た。
最上階の5階。エレベーターを降りてすぐの502号室がメグの部屋だった。
「どうぞ。ちょっと散らかっちゃってるけど」
1DKの部屋は、作りが古いせいか天井が低く、「ミチがいると、この部屋にものすごい圧迫感が出るね」とメグは笑った。
部屋は、言うほど散らかってはいなかった。キッチンやシンクもキレイなもので、そこに酒類の缶などが転がっていなかったことに、ミチはホッとした。
元々ミニマリスト気味のメグが、物を多く持たないことは知っていたが、引越して2か月が経つ割には、家具が極端に少ない。ただ…。
「このベッド、大きすぎるよね。カオルさんが貸してくれたんだ」
おそらくクイーンサイズ以上はある大きなベッドは、カオルの趣味で“17世紀のフランス由来のロココ調”のお姫様ベッドだそうだ。やたらと大きなヘッドボードは、ミントグリーンのベルベッドに、うっすらと花柄が織り込まれている。
「ここ片付けちゃうから、ミチはここに座って」
メグが、「散らかっている」と言ったのは、ベッドの上のことだったのか、テーブルもないこの部屋での作業場と化している様子のベッドには、ノートパソコンと、書類が散乱していた。それらは、大量の新聞や雑誌の記事のコピーで、喫茶店のバイトに必要な物では絶対にない。
― やっぱり。
仕事を辞めたといいながら、メグは調べ続けているのだろう。“行方不明になったリリア”の記事、満面の笑みの少女の写真が脳裏に浮かんできたけれど、ミチは、自分からその話をしようとは思わなかった。
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