美景はおそらく自分がアイドルだったことを知らないだろうとともみは思った。日本中に名を知られた人気者というわけではなかったし、ルビーが勝手に話すとも思えなかったから。
「私は昔、芸能界にいて。今はいろいろ改善されてきたみたいですけど、私が辞める前…7、8年くらい前までは、夢を叶えるために自分の体を武器にする子が一定数いたんです。
例えば、飲み会では自分から、キャスティングの決定権があるおじさんの横の席に座って。連絡先を交換して、2人で食事に行くようになって、体の関係を持つ…とか。
私はたまたまその道を選ぶ前に、自分の実力の無さに気がついて芸能界を辞めましたけど、どうしても叶えたい夢があって、それが、自分を差し出すことで手に入ると言われたら——そうしていた可能性もあったかもしれません」
美景に伝えるつもりはなかったが、実はともみにも、業界の権力者たちに、体の関係を提案された経験がある。けれどその度に断ってきたのは、実力で勝負したいから、とか、自分の体を大切にしているから…という信念があったからではない。
一度体を許してしまえば、相手の要求は際限なくエスカレートし、今の美景のように——関係を持った相手だけではなく、他の誰かに知られて脅される可能性だってあるのだから、体の関係を持つことは、メリットよりリスクが大きいと考えてきたからだったが。
ともみが選ばなかったその手段を使い——今やハリウッドでも活躍するほど成功した女優を知っている。反対に、体だけをくいものにされ、使い捨てられ心を病んでしまったアイドルのことも。
「私は、自分の体を仕事に利用して勝負を仕掛けた同業者を軽蔑したことはありません。誰かに強要されたりするのは論外ですが、本人の選択による行動なら、それは手段の一つです。ただしその手段は、世間では許されないとされる行為ですから、バレたら、代償を払うことになるのは当然で避けられません。だから、今から私がお話するのは、その“代償の払い方”です」
感情が抜け落ちてしまったかのような顔で聞く美景に、ともみは穏やかにほほ笑んだ。
「美景さんも何度もシミュレーションされたことだと思いますが、これから起こり得るパターンを改めて整理してみましょうか。
まず——これまでの実績や世間の評価を守るために、香川さん…でしたっけ?愛人だった男性の脅しに従った場合、まず一真さんを失いますが、表面上は今まで通りの生活に戻れます。
でも、自分の人生を誰かにコントロールされたという屈辱と、また脅されることになるかもという恐怖に怯え続けることになると思います」
美景の表情は弱々しくも変わらない。そして「わかっています」と呟いた。
「では、香川さんの脅しに構わず、一真さんとの結婚を選んだとしたら。“元愛人だった男性の暴露”という形で、美景さんや美景さんの会社は世間からのバッシングを受けることになります。
“愛人”や“不倫”に対する声は厳しいですから、仕事には大きな影響がでるでしょうし、香川さんの脅しも一度で終わるとは限らない。話を聞く限り、彼の美景さんへの執着は異常ですから、脅しだけではなく、ストーカー行為とかに発展する可能性もある」
ルビーが大きなため息をついて、カウンターにうつ伏せた。そして、「わかってはいたけど救いがない。エグイ、どちらを選んでもエグすぎる」と唸りながら、ごん、ごん、とカウンターに頭を打ち付け続ける。
そんなルビーを、やめなさいと体ごと起こしてから、ともみは再び美景の前に戻った。
「ルビーが言うように、どちらの選択をしても救いがないんです。今の美景さんの状況は。だから私からの提案は、いっそ“救われたい”という気持ちを捨てるべきだということです。私が美景さんなら、そうします」
「救われたい気持ちを…捨てる?」
美景の疑問に、ともみがしっかりと頷き、力強く続けた。
「自分が救われることより、大切な人のためには、どう行動するべきかと考えるんです。美景さんにとって何より大切なのは——一真さんですよね」
美景は少しだけ目を見開いたものの黙ったままだ。しばらく待っても返事はなく、ともみは小さく溜息をついた。
「もしかして、一真さんより仕事やプライドとか…世間体の方が大切ですか?」
「そんなわけない…」と美景は唸るように反論した。
「じゃあまず、一真さんに向き合うべきです。プロポーズしてくれた一真さんに全てを話して誠意を尽くすことが、脅しに屈する屈さないということよりも優先されるべきことだと思うんですが」
「何度か話そうと思ったこともありました。でも結局勇気が出なくて。私が愛人だったと知ったらどうなるのか…情けないけど、怖くて話せませんでした。
万が一…本当に万が一、彼が私を許して受け入れてくれたとしても、ともみさんが言う通り、香川さんは…あの男は何をしてくるかわかりません。私と一緒にいることで、攻撃が一真に向かってしまうことだって十分に考えられます。
それに一真は公務員なので、職場に嫌がらせが届けば、職を失う危険にさらされてしまうかもしれない。私のせいで、誠実に、真面目に生きてきた一真の人生が壊される可能性があると考えると不安で、その原因を作ってしまったことが申し訳なくて…“一番大切な人”だと思うことすら、もう私には、許されない気がして」
唇をぎゅっと噛みしめ、無理やり微笑みを作った美景に、ともみは淡々と続けた。
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