「鮨は、手と箸どちらを使うのが正解?」「スマホはどこに置く?」知っておくべき鮨店での知識とマナー

鮨の最前線を知って、思いっきり鮨の世界に飛び込むなら、知識もマナーもしっかり押さえておきたい。

これを読めば、鮨店での振る舞いも堂々とできるはず。



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教えてくれたのは……


1979年、中埜酢店(現・ミツカン)入社。食酢の基礎研究や開発など、食酢に関するあらゆる業務を担当。2016年にミツカンを退職後は「お酢・お寿司検定」公式テキストを著すなど「食酢エキスパート」として啓蒙活動を行う。

― サラッと語りたい鮨の歴史を深く知る ―


◆お鮨のルーツを辿ると、その源流は東南アジアにあった!


“古来、鮨は魚の保存のための手法だった”


鮨といえば握り鮨やちらし鮨が思い浮かぶが、発酵により酸味を出す、「なれ鮨」というのが発端だ。その起源は実は東南アジア。

メコン川流域などで淡水魚をいかに保存するか、という先人の知恵が鮨の始まり。当時はご飯を発酵させた「発酵鮨」で、そのご飯は捨てて魚のみ食べていた。

いまでこそ日本食の代表として世界に知られる鮨だが、そのルーツはなんと日本ではなかった!

◆今に続く鮨の文化が作られたのは江戸時代!


“室町時代に飯と魚を食し、江戸時代に酢が普及した”


鮨が現在の食べ方になるには、ふたつの革命があった。

元々、発酵したご飯を捨てていたが、室町時代に発酵期間を縮めることで飯と魚を一緒に食すようになった。そして江戸時代には酢の普及で発酵する保存食という概念が無くなり、現代の酢飯が生まれた。

握ってすぐ食べるスタイルゆえ、骨を除く、卸し身にして漬けるなど下処理も必要となり、江戸後期には握り鮨が誕生。外食文化として発展を遂げた。

◆約30倍の価格をとる高級鮨が江戸時代にもあった!


“江戸時代には三代鮨店が、すでに話題を呼んでいた!”


高級鮨の価格について昨今よく話題になるが、江戸の昔から似たような話があった。

当時はファストフード感覚で、1個8文(約160円)が相場。だが名店ともなれば話は別。江戸の三大鮨店といえば『松がずし』『與兵衛鮓』『毛抜鮓』。

なかでも歌川国芳の浮世絵(上記イメージ)にも描かれる『松がずし』は当時から1個250文とその値段は相場の約30倍!200年前にも高級化は進んでいたのだ。

◆かつては“おにぎり大”!鮨のサイズは時代を反映する


“昔の鮨はビッグサイズ!働く町人や遊客の小腹を満たす”


現在、鮨店のコースは約10貫程度。酒と楽しむ人も多く、鮨のサイズは必然的に小ぶりになり、大きさは約20gより小さい。

しかし江戸時代の鮨はいまよりも気軽な食べ物。サイズはいまの約2.5倍(45g)もあったという。とてもひと口では食べられず、現代のおにぎり感覚だったのではと推測される。

小腹が空いた時に立ち寄る、カジュアル飯だったといえる。

◆すしの語源は、酸っぱいという言葉からって本当!?


“江戸の学者も支持する「酸っぱいから、すし」説”


鮨は東南アジアから中国に伝来し、“鮨”や“鮓”と書物に著されてきた。それが“すし”になったとして有力なのが「酸っぱいから、すし」という説。

儒学者・貝原益軒も「日本釈名」でこの説を支持している。「酸い飯(すいいひ)」の飯(いひ)が「し」になったのは頷ける話。

「酸っぱさ=酢」という鮨にとって欠かせない調味料が名前に入っているのもこの説を支持したい理由のひとつだろう。

◆鮨の個性を決めるのは、酢の配合によるもの


“赤酢?米酢?それとも割り酢?旨い酢飯を作るのが職人の技”


鮨は酢飯とタネのバランスが大前提ではあるが、酢飯の良し悪しで6~7割決まると言われるほど大事な要素。

タネとの相性では赤酢は赤身の魚によく合い、特に脂ののりが良いほどマッチ。一方で淡白な白身魚は米酢によく合う。そのため赤酢・米酢・割り酢を使い分ける高級店が続出。

つまり酢飯は職人の腕の見せ所。タネのクオリティーよりも酢飯の美味しさに注目するのが真の鮨通だ。

◆かつてワサビを使うのは、まぐろと小肌だけだった!


“「ワサビ」という一工夫が握り鮨に革命をもたらした”


通に人気のタネといえば、まぐろと小肌。これを売り出したのは文政7(1824)年に江戸の尾上町に『與兵衛鮨』を開店させた華屋與兵衛。

当時は下処理をした「江戸前」が主流だったが、華屋與兵衛が殺菌・防カビ効果のあるワサビを酢飯とタネの間に挟む工夫をし、生魚が食べられるように(諸説あり)!

そこで使われたのがまぐろと小肌。鮨の幅を広げるワサビのアイデアが人気のタネの誕生に一躍買った。

◆うに、いくらは軍艦という発明があって世に出た!


“『銀座久兵衛』が生みの親。人気ダネの誕生秘話”


うにといくらは、実は歴史が浅い鮨ダネでもある。というのが、かつては握りには不向きで、珍味扱いだったことから鮨ダネにはならなかった。

しかし、『銀座久兵衛』の今田寿治氏が海苔で巻いて上にタネをのせる“軍艦巻き”を考案したことで鮨として世の中にデビュー。

当初こそ世間から敬遠されてなかなか根付かなかったのだが、いまや誰もが知る軍艦の名とともに、人気の鮨へと地位を確立!

◆トロの名付け親は、日本橋の老舗のお客さんだった!?


“実は江戸時代の嫌われ者。大正時代に日本橋で逆転劇!”


握り鮨が誕生した江戸時代では、江戸湾の魚を使うのが主流だった。特に傷みやすい大トロは食べずに捨てられていた程。それが一躍人気になるきっかけは大正時代になってから。

日本橋『𠮷野鮨本店』の常連客がトロを食べた時に、口の中でとろける味わいに感動し「トロ」と命名したと言われている。その響きも良く、現在に至る。

江戸時代に嫌われていたトロがその美味しさで逆転劇を見せたのだ!

意外と知らない酢と鮨の密な関係

~赤酢の発明がなければ、江戸の握り鮨は生まれなかった!?~

米酢や粕酢は、砂糖や塩が配合され、「すし酢」として商品化されている。種類も多く赤酢タイプもある


鮨が大きく進化したのは“酢”が使われるようになった江戸時代。鮨飯の酢は、大きく分けて「米酢」と「赤酢」がある。

握り鮨は江戸で流行したが、なんと当時は米酢不足。そこで活用されたのが“半田の粕酢”だ。これはミツカンの創業者・中野又左衛門が知多半島の半田で酒粕を利用して造ったもの。

粕酢が利用されたのは、機動力良く航海できる「弁才船」で大量輸送できたから。熟成した酒粕で作った粕酢は、芳醇でまろやか。やや赤みのある色合いで、その鮨飯はご存じ“赤シャリ”となった。

つまり、現在赤酢と呼ばれる酢のパイオニアは、半田の粕酢なのだ。いまも関東で多くの店が赤酢を使うのは、そこに端を発している。

ちなみに関西では“白”が好まれ、米酢の酢飯が使われている。とはいえ最近は店によって両方を使い分ける所も多数ある。これから先の酢と鮨の関係に注目必至だ!

覚えて膝を打つ「符丁」の由来


職人同士の合言葉や隠語である符丁を覚えて、さらに鮨の奥深さを知ろう。

【シャリ】
仏舎利が語源と言われている。小粒で白い米が釈迦の遺骨である仏舎利に似ていることに由来。

【なみだ】
ワサビのことで、きついと涙が出ることに由来。それでもクセになるその味わいが、やめられない!

【むらさき】
醤油のこと。醤油の色が紫色に見えることから、そのまま由来となった。

【ガリ】
その名の通り、噛んだ時にガリガリと音がすることに由来している。

【かっぱ】
きゅうりのことを指す。由来は妖怪・河童の好物という逸話から。

【片思い】
「磯の鮑の片思い」という、ことわざから鮑のことを指す。殻が片側しかない様子から、そうに呼ばれるようになったとか。

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