「あ、あの、本当にすみません…。実はちょっと…」
女性は、エンジ色の分厚いダウンジャケットに身を包んで、白いニットのキャップをしている。25、6歳といったところか。
寿人はあわてて立ち上がる。
「どうかしました?」
「実は、着火剤を持ってくるのを、忘れてしまって…。マッチはあるんですが、うまく火がつかなくて。もしお持ちだったら、大変申し訳ないんですが、少しだけわけていただければと思って…」
「も、もちろんです」
寿人は立ち上がり、持ってきた着火剤の余りを袋ごと女性に手渡した。
「本当に、助かります」
「いいえ、気にせず」
「あの…お支払いさせてください」
女性は、小さな黒いコインケースを取り出す。
「え、いいですよそんなの。…というか、もしかしてこれから準備ですか?」
寿人は、おどおどしながらもたずねた。
時刻は20時を回っているはずだ。あたりは真っ暗で、キャンプを始めるには遅い。何か事情があるのではと、心配したのだ。
「実は…設営してテント内で休憩してたら、つい寝落ちしてしまったんです。…お恥ずかしい話、最初にビールをちょっと飲んでしまったから、車ももう出せなくて」
「なるほど」
彼女がやってきた方向を見ると、離れたところに小さなテントがあった。テント内に明かりはついているが、たしかに焚き火などは、一切ついていない。
彼女の小さな体と血色のない真っ白い顔を見て、凍えているのではないか。寿人は、胸が痛む。
「…よかったら、ちょっと温まっていきますか?あなたが、あまりに寒そうで」
「いや、でも…いいんですか?」
寿人は、自分のチェアを彼女にゆずり、金色のヤカンから紙コップに緑茶を注ぐ。豊かな香りが、湯気とともに立ち上る。
「どうぞ。熱いかもですが」
女性は、それを両手で包んで持ち「あったかいです」と笑った。
― どうしようか。この状況。
困り果てながら、寿人はクーラーボックスの上に座り、質問をしぼりだす。
「えーっと…キャンプは、よくされるんですか?」
声がふるえた。
「ええ。特に、冬は」
「…冬キャン派ですか」
「冬は、にぎやかな人があんまりいないから。それが好きで」
「…いつも、おひとりで?」
「はい。あなたは?」
「僕も、いつもひとりです」
沈黙が2人を包む。
「あの…結海(ゆうみ)といいます。鈴村結海です」
「上条寿人です」
風が吹き、テントがパタパタと揺れた。
「…ああ、そろそろ焼けるな。ゆ、結海さん。お肉とか、ワインとかは…お好きですか?」
スキレットの蓋を開ける。ステーキは、ちょうどいい仕上がりだ。バターをのせると、ジューという音とともに芳醇な香りが立った。
「…おいしそう」
「ぜひ、一緒に。ちょっと大きいのを買ってしまったので」
間を持たせたいがために、唐突な誘いをしてしまった。すぐさま反省した寿人だが、ステーキを見つめる結海のうれしそうな口元に、胸をなでおろす。
寿人は、ステーキを木のまな板に移して切り分け、数切れを木皿にのせた。
念のため「にんにくは好きですか?」と確認してから、先ほど作ったガーリックチップを散らし、結海に手渡す。
それから、テーブルの上に置かれている赤ワインを、2つの紙コップに注ぐ。
「どうぞ。乾杯しましょう」
「はい、乾杯…です」
結海は、遠慮がちにステーキを一切れ、そしてワインを一口飲んだ。ゆっくり味わったあと「なんておいしいんでしょう」と顔をほころばせた。
遠慮する彼女にどんどん切り分け、ワインを2、3杯と注ぎ、ほとんど言葉を交わさずにじっくり味わう。
「ああ…つい、たくさんいただいてしまいました」
「僕が勧めたんですから、遠慮しないでください」
結海の顔に血色が戻っていて、寿人はほっとした。
すると結海は、小さな声で言う。
「…キャンプって、いいですよね」
「え?」
「なんていうか…うまく空気が吸えます。毎日に息が詰まったとき、私はキャンプに息継ぎしに来るんです」
聞けば結海は、IT企業で営業をしているらしい。そして土日は、実家のパン屋の手伝いでレジに立っているという。日々、忙殺されている様子だ。
今日は、それで疲れて寝落ちしてしまったのだろうか。詳しく聞いてみたいと思ったが、寿人は遠慮した。大事な息継ぎの時間を、邪魔したくはなかった。
「…僕は、税理士事務所をやっています」
「へえ」
結海は身を乗り出す。
「数字だらけの無機質な世界です。だからキャンプにくると安心します。木も草も、虫も鳥も、僕もちゃんと生きてる。よかった、って」
大きく頷いてくれた結海を見ながら、寿人はなんだか、夢の中にいるみたいな気持ちになった。
― なんで僕、今、こんなにスラスラしゃべれてるんだろう。
この記事へのコメント
誰かと繋がってるとかアオハルの登場人物が追々出て来たり?なら楽しみですね。