マティーニのほかにも Vol.16

三軒茶屋のバーで出会った20代男女。曖昧な関係のまま半年が経ち、ある夜男が…

“カクテルの王様”と名高いマティーニは、作り方はこの上なくシンプルだ。

ドライジンとドライベルモットを、ステアするだけ。

削ぎ落とされたレシピなだけに奥が深く、バーテンダーの技術や哲学が浮き彫りになるカクテルだと、至は思っている。

またその種類の多さも、マティーニが人を魅了してやまない理由だろう。

ジンとベルモットの比率が7対1になれば、エクストラドライマティーニ。

ドライベルモットをスイートベルモットに置き換えれば、スウィート・マティーニ。

ドライマティーニを氷を入れたグラスに注げば、マティーニ・オン・ザ・ロック。

ジンをウォッカに置き換えれば、ウォッカ・マティーニ。

ウォッカ・マティーニをステアではなくシェイカーで混ぜ合わせて作れば、ボンドマティーニ…。

数え上げれば300種類を超えるともいわれるマティーニは、まさに“カクテルの王様”の名にふさわしいカクテルなのだ。

今夜、注文を受けて作るドライ・マティーニは、数あるマティーニの中でも代表なレシピのマティーニだ。

よく冷やしたミキシンググラスに、たっぷりの氷とジン、ベルモットを4対1の比率で入れる。

しっかり冷えるまで、氷ごと回しながら丁寧にステアする。

同じくよく冷やしたグラスに氷が入らないように注ぎ、レモンピールを絞って香りをつける。

仕上げに、ピックに刺したグリーンオリーブを添える…。

どの工程も、誠心誠意、真心を込める。一挙手一投足に、優しさを込める。

そうして出来上がった2杯のマティーニを、至は胸を張ってふたりに向かって差し出した。

「お待たせいたしました。マティーニでございます」


ゆっくりとグラスを持ち上げ、早紀子が口をつける。それを追うように、翔平もグラスを傾ける。

「…美味しい!」

同時に漏れたため息のような喜びの声を聞き、至の胸はまたしても、度数の高いカクテルを流し込んだかのように高揚した。

ふたりが満足そうにマティーニを味わうのを確認すると、至はまたしてもカウンターの端へと影を潜める。

さっきから、至の胸は温かになるばかりだ。幸福に酔いしれるバーテンダーには、もしかしたら、アルコールは必要ないのかもしれない。


「俺…早紀子ちゃんのこと…。…告白するのはこの店でって……」

「…うれしい…私も…。こちらこそ……」

「これからも…いろんなマティーニをふたりで……」

離れた場所からジャズに紛れて、断続的にふたりの会話が聞こえていた。

至はグラスを拭きながら、そっと横目で確認する。マティーニのグラスは、同じペースでまもなく空になろうとしていた。

だけど今回は、「次は?」と聞きに行く必要はないだろう。そう見計らった至は、密かに会計の準備を進める。

早紀子の手と、翔平の手は、カウンターの上でしっかりと結ばれていた。

磨き上げられたカウンターの上では、2つのグラスは寄り添っていた。


「じゃあ佐藤さん、ごちそうさまでした」

静かに流れるコンテンポラリージャズに、クスクスと幸福な恋人たちの忍び笑いが重なり、この上なく美しいジャムセッションに変わる。

至の読み通りマティーニを飲み干したふたりは、そのジャムセッションをBGMに店を後にするのだった。


と、その時だった。

入れ違いに、新たなお客様が入ってくる。30代くらいに見える女性だ。おそらく、今までこの店に来たことはない。

「いらっしゃいませ」

「すいません、初めてなんですけど…。職場が近くて、ずっと気になってて…」

「もちろん、歓迎いたします。どうぞ」

女性客の目は、少し赤いように見えた。

疲れや、悲しみの中にいるのかもしれない。

はたまた、喜びと感動の中にいるのかもしれない。

まだ分からない。

スマホに目を落としたままで、表情はぎこちない。

もしかしたら、誰かとやりとりしているのかもしない。

グルメアプリかなにかで、小説でも読んでいるのかもしれない。

「あの…どうしよう。フラッと入っちゃったんですけど、あんまりバーとかわからなくて。マティーニ?とか頼めばいいのかな」

少し緊張した表情を浮かべる女性に、至は優しく微笑んだ。


夜が、好きだ。

至がそう感じるのは、バーテンダーになってから一体何度目だろうか。

心が丸見えになる、バーの魔法。

静謐で、密やかで、親密な、カクテルの魔法。

世界一“テンダー(優しい)”な魔法使いとして、今宵も人々の人生に寄り添う───その誇りを胸に、至は言った。

「お客様のお好みを教えてください。バーにはいろんな一杯がありますからね。…マティーニのほかにも」


Fin.


▶前回:10月になると思い出す元カノ。年上女に恋した42歳男が、独身を貫き通しているワケ

▶1話目はこちら:国立大卒の22歳女。メガバンクに入社早々、打ちのめされたコト

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この記事へのコメント

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No Name
好きな連載が終わってしまった。一話二話の主人公二人が出てきたのは嬉しかったし心温まるストーリーで穏やかな気持ちになれた。正直、他の連載はほぼ似たような登場人物の婚活話だし港区港区してて読み疲れ感半端ない。ジレンマ?年収4千万、東大院卒のVIO脱毛?そんなのよりもっと普通に感動出来る連載を増やして欲しいけどねぇ。
2024/11/06 06:0322
No Name
佐藤さん一話で出てきたバーテンダーだったんだね。その時にボンドマティーニ頼んだ早紀子ちゃんと、それを笑った実家がはっさく農家の翔平、ふたりのハッピーエンドで締めくくるなんて…素敵な終わらせ方♡
2024/11/06 05:2520
No Name
見事に上手く繋げてまとめたなぁという印象。 この二人とってもお似合い! 穏やかで優しい気持ちになれるお話だった。最後、泣き腫らしたような女性が入って来たのでfinとは書かれていたけれどシーズン2もあるのかな…あったらいいなと。
2024/11/06 05:4019
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