2024.11.06
マティーニのほかにも Vol.16“カクテルの王様”と名高いマティーニは、作り方はこの上なくシンプルだ。
ドライジンとドライベルモットを、ステアするだけ。
削ぎ落とされたレシピなだけに奥が深く、バーテンダーの技術や哲学が浮き彫りになるカクテルだと、至は思っている。
またその種類の多さも、マティーニが人を魅了してやまない理由だろう。
ジンとベルモットの比率が7対1になれば、エクストラドライマティーニ。
ドライベルモットをスイートベルモットに置き換えれば、スウィート・マティーニ。
ドライマティーニを氷を入れたグラスに注げば、マティーニ・オン・ザ・ロック。
ジンをウォッカに置き換えれば、ウォッカ・マティーニ。
ウォッカ・マティーニをステアではなくシェイカーで混ぜ合わせて作れば、ボンドマティーニ…。
数え上げれば300種類を超えるともいわれるマティーニは、まさに“カクテルの王様”の名にふさわしいカクテルなのだ。
今夜、注文を受けて作るドライ・マティーニは、数あるマティーニの中でも代表なレシピのマティーニだ。
よく冷やしたミキシンググラスに、たっぷりの氷とジン、ベルモットを4対1の比率で入れる。
しっかり冷えるまで、氷ごと回しながら丁寧にステアする。
同じくよく冷やしたグラスに氷が入らないように注ぎ、レモンピールを絞って香りをつける。
仕上げに、ピックに刺したグリーンオリーブを添える…。
どの工程も、誠心誠意、真心を込める。一挙手一投足に、優しさを込める。
そうして出来上がった2杯のマティーニを、至は胸を張ってふたりに向かって差し出した。
「お待たせいたしました。マティーニでございます」
ゆっくりとグラスを持ち上げ、早紀子が口をつける。それを追うように、翔平もグラスを傾ける。
「…美味しい!」
同時に漏れたため息のような喜びの声を聞き、至の胸はまたしても、度数の高いカクテルを流し込んだかのように高揚した。
ふたりが満足そうにマティーニを味わうのを確認すると、至はまたしてもカウンターの端へと影を潜める。
さっきから、至の胸は温かになるばかりだ。幸福に酔いしれるバーテンダーには、もしかしたら、アルコールは必要ないのかもしれない。
「俺…早紀子ちゃんのこと…。…告白するのはこの店でって……」
「…うれしい…私も…。こちらこそ……」
「これからも…いろんなマティーニをふたりで……」
離れた場所からジャズに紛れて、断続的にふたりの会話が聞こえていた。
至はグラスを拭きながら、そっと横目で確認する。マティーニのグラスは、同じペースでまもなく空になろうとしていた。
だけど今回は、「次は?」と聞きに行く必要はないだろう。そう見計らった至は、密かに会計の準備を進める。
早紀子の手と、翔平の手は、カウンターの上でしっかりと結ばれていた。
磨き上げられたカウンターの上では、2つのグラスは寄り添っていた。
「じゃあ佐藤さん、ごちそうさまでした」
静かに流れるコンテンポラリージャズに、クスクスと幸福な恋人たちの忍び笑いが重なり、この上なく美しいジャムセッションに変わる。
至の読み通りマティーニを飲み干したふたりは、そのジャムセッションをBGMに店を後にするのだった。
と、その時だった。
入れ違いに、新たなお客様が入ってくる。30代くらいに見える女性だ。おそらく、今までこの店に来たことはない。
「いらっしゃいませ」
「すいません、初めてなんですけど…。職場が近くて、ずっと気になってて…」
「もちろん、歓迎いたします。どうぞ」
女性客の目は、少し赤いように見えた。
疲れや、悲しみの中にいるのかもしれない。
はたまた、喜びと感動の中にいるのかもしれない。
まだ分からない。
スマホに目を落としたままで、表情はぎこちない。
もしかしたら、誰かとやりとりしているのかもしない。
グルメアプリかなにかで、小説でも読んでいるのかもしれない。
「あの…どうしよう。フラッと入っちゃったんですけど、あんまりバーとかわからなくて。マティーニ?とか頼めばいいのかな」
少し緊張した表情を浮かべる女性に、至は優しく微笑んだ。
夜が、好きだ。
至がそう感じるのは、バーテンダーになってから一体何度目だろうか。
心が丸見えになる、バーの魔法。
静謐で、密やかで、親密な、カクテルの魔法。
世界一“テンダー(優しい)”な魔法使いとして、今宵も人々の人生に寄り添う───その誇りを胸に、至は言った。
「お客様のお好みを教えてください。バーにはいろんな一杯がありますからね。…マティーニのほかにも」
Fin.
▶前回:10月になると思い出す元カノ。年上女に恋した42歳男が、独身を貫き通しているワケ
▶1話目はこちら:国立大卒の22歳女。メガバンクに入社早々、打ちのめされたコト
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