2024.11.06
マティーニのほかにも Vol.16「佐藤さん、今日は2人で来たよ」
「翔平さん、こんばんは。早紀子さんはお久しぶりですね」
「すみません佐藤さん、ご無沙汰しちゃって…」
やってきたのは、翔平と早紀子だった。翔平は、店に通って2年ほど。早紀子は半年ほどになる。
翔平は週に1度は1人で飲みに来るほどの常連客だが、早紀子の方は、1人でバーに通うことに気後れする気持ちが未だに少しあるのだろう。1人でやってきたのはひと月に2回あるかなしで、最近は翔平と連れ立って2回ほど来店したくらいだ。
それでも、至にとって早紀子は思い入れの深いお客だった。
「おふたりとも、今日は何にしましょうか?」
「俺はまずはビールください。早紀子ちゃんは?」
「どうしようかな。私は、何かさっぱりしたものを。フルーツを使ったカクテルとかありますか?」
「今の時季ですと、梨か…温州みかんのカクテルはいかがですか?」
「いいですね!私、柑橘類大好き。温州みかんでおまかせします」
「かしこまりました」
半年前、勇気を振り絞って初めてバーを訪れた時の、緊張で強張った早紀子の顔を思い出す。
それに比べると、今カウンター越しに座っている早紀子は、まるで別人のようだった。
スマートで背伸びしない注文。くつろいだ表情。それに心なしか、随分と綺麗になったような気もする。
きっと、翔平と良い時間を過ごしているのだろう。
そう考えると至は、自分はまだ一杯も飲んでいないというのに、胸がふわっと温かくなるような気がした。
たとえ目の前のふたりがどういう関係だとしても、出会いの場を提供できたということが誇らしかった。
2週間前、バーテンダーになった頃から憧れていた凄腕のバーテンダー・小平の店に行った時に言われた言葉を覚えている。
『バーテンダーに必要なのは、豊富な話題と、人を観察する目……佐藤さんは一流のバーテンダーです』
こんなに嬉しいことはなかったが、ビールとみかんのカクテルを提供してから至は、翔平と早紀子から一番遠いカウンターの隅でグラスを拭き続けた。
こちらからふたりに話しかけるつもりはない。必要がなければ口を開かず、心地よい沈黙を忠実に守ることも、バーテンダーの大切な仕事の一つだと心得ているからだ。
静謐で、密やかで、親密。ビールと温州みかんのカクテルが引き立てる2人の世界。
それを邪魔する権利は、どんなに偉大な魔法使いでも持っていない。ただ、魔法の時間が切れないように、至はグラスの中身だけを見守り続けた。
翔平と早紀子のグラスは、まもなくほとんど同時に空になるように見えた。
気の合う同士は飲むペースが似ている、というのは、至がバーテンダーとして働くうちに見つけた、いくつかの法則のうちのひとつだった。
またしても温かな気持ちになりながら、至はグラスを拭く手を止め、そっとふたりのそばに立つ。
「次はいかがいたしましょうか?」
静かに問いかけると、翔平と早紀子は互いに目を見合わせる。そして、少しはにかんだ表情を浮かべて、早紀子が答えた。
「マティーニをお願いします」
「ウォッカ・マティーニじゃなくて、シェイクじゃなくてステアでいいですからね」
横から翔平が茶々を入れるが、「もう!」と恥ずかしそうに顔を赤らめる早紀子は、自分の両頬に手を当てるだけだった。
触れ合う様子がないところを見ると、もしかすると、まだお互いの気持ちは伝え合っていないのかもしれない。
「かしこまりました。基本的なドライ・マティーニをお出しします」
そう答えながら至は密かに、渾身の一杯を提供しよう、と気合を入れる。
心が丸見えになる、バーの魔法。それを披露するのに、こんなに適したタイミングもないだろう。
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