2024.09.21
アオハルなんて甘すぎる Vol.32「ともみ、そこまでにしときな」
「…光江さん」
ともみちゃんの視線を追って入口の方を振り返ると、いつのまにか…というべきか、光江さんがそこにいた。今日も相変わらずの存在感で目の覚めるようなマリンブルーのロングドレスだ。
「黙って聞いてりゃ…ともみ、アンタのトラウマを人に押し付けるんじゃないよ。人それぞれのタイミングで諦めて何が悪い。がむしゃらとか努力とか全部、アンタが好きでやったんでしょうが。それに…酔っぱらって話すようなことじゃない」
ともみに水を、と言った光江さんと店長とのやりとりで、私はともみちゃんが既に結構な量のお酒を飲んでいたのだと知った。
出された水に手を付けることなく、ともみちゃんの顔がゆがむ。ああ、もう仕方ないねえ、と光江さんが近づきともみちゃんの肩を抱いた瞬間、ともみちゃんが光江さんの体に顔を伏せ、その肩が震え出した。
声なき涙に体を揺らすともみちゃんを、しばらく黙って支えていた光江さんが、アンタ、今日は飲み過ぎ、もう帰りなさいと促すと、ともみちゃんは素直に立ち上がった。
このまま1人で帰らせるのは心配だからと、光江さんは店長にともみちゃんを送っていくように頼んだ。
ちょうど、私たち以外では唯一のお客さんだった男性2人が、会計を終わらせ帰るところだった。そのタイミングで、今日はもう閉めちゃおうと、光江さんはともみちゃんと店長を送り出してから扉にクローズの看板をかけた。
「…じゃあ、私もお会計を」
私がそう言うと、ちょっと待ったと光江さんに引き止められた。
「宝ちゃんはもう少しだけアタシに付き合ってくれない?このババアと…初めてのさし飲みっていうのはどうだい?」
― 光江さんと…さし飲み…!?
その響きは、怖くもあったけれど魅惑的なお誘いでもある。それに、こんなチャンスはもう二度とないかもしれない。
私は覚悟を決めて言った。
「じゃあ…私から光江さんに一杯…ご馳走させてもらえませんか?」
政治家も頼るという西麻布の女帝。そんな光江さんに、一杯ご馳走させてくださいと持ちかけることは、相談にのって欲しいとお願いするということ。気が向かなければあっさりと断られるけれど、女帝が酒を選んでくれたら相談を受けてくれるということになる、らしい。
それは確か雄大さんから聞いた話だ。
私からのその提案は、思いもよらないものだったのか…カウンターの中で自分のお酒を作ろうとしていた光江さんが、目を丸くするとはこのことというような表情でほんの一瞬フリーズし、すぐに大きな声で笑いだした。
「…いいけど。めちゃくちゃ高くつくかもしれないよ」
光江さんの“高くつく”がどれくらいなのか怖くなったけれど私は思い切って、はいと頷いた。
宝ちゃんは意外と肝が据わってるよねぇ、と、光江さんは、じゃあちょっと待っててと、どこかに消えた。そして戻ってきたその手には、一本のおそらくシャンパン…のボトルがあった。
「これをグラスで頂くことにする。安心して、一本奢れとはいわないから。宝ちゃんも一緒に飲もう。私の一杯をご馳走してくれれば…あ、宝ちゃんも飲むから二杯分になっちゃうか」
そう笑ってシャンパングラスを取り出した光江さんの、ボトルを開けてグラスに注ぐ…その流れるような所作が美しくて見とれてしまった。
「このシャンパンの名前は、vie amère et douce。日本語にすると、苦くて甘い人生、ってことになる。
苦みが甘さを引き立てる、苦い経験を経てこそ人生は甘く美しくなるって意味をこめて名付けられたんだってさ。
このシャンパンを作ったフランス人は、古い知り合いだけど、変わった人でね、と光江さんは懐かしそうに笑った。
2人でカウンターに並び、乾杯をして口を付けたそのシャンパンからは苦みは感じられず、バターのような甘い味がした。
「改めて、さっきはうちのバイトが…ともみが悪かったね。あの子は驚く程に人生にストイックでさ。ああ見えて思考がマッチョな体育会系で自分にも他人にも厳しいから」
それがあの子の魅力でもあるから許してもらえると嬉しいけど…と光江さんの瞳に優しい光がともり、西麻布の女帝と恐れられるゴットマザーが、ともみちゃんをいかに大切に思っているかがわかる気がした。
「さて、じゃあ、この一杯のお代を…宝ちゃんの相談とやらを聞こうか」
光江さんに促されたものの、いざ相談するとなると…ともみちゃんに指摘されたことが全てではないかという気がして恥ずかしくなってきた。それでも。
私が甘いのも、情けないのも分かっているんですけど…と前置きしてから、私はともみちゃんに話したことを光江さんにも伝えた。
「失敗して以来、次の目標が見えない。日々は充実しているのにモヤモヤが消えない。そんな状況で、パリに行く覚悟ができていない、ってことか」
一通り話し終わると、光江さんにそうまとめられ、私は頷いた。
「まあ確かに、甘っちょろくてかわいい悩みで羨ましいよとは感じるけれども。宝ちゃん、人類に平等に与えられている…唯一のものって、なんだと思う?」
― 時間…かな。
さっき、西麻布の交差点の信号待ちで思ったこと。全ての人に時間は平等に流れていく。それを口にしようとした私の答えを待たずに、光江さんは続けた。
「時間、だね?時間だけは…まあ寿命の違いはあったとしても、1日が24時間でそれを生きる権利は、全人類に平等に与えられてる。
そしてその24時間を…その積み重ねの毎日をどう使ったかが、それぞれの人生の個性になり、充実度になり、幸か不幸かってことにもつながっていくし、平等にあるけれど限りあるのも時間だよね」
でも、人には、惰性という習性もあるわけだ、と光江さんは言った。
「時間を有効に使うことで人生は好転するとわかってはいても、それを邪魔するのが、我々人間の惰性という習性だ。
惰性は、努力の苦労から逃げる手助けをしたり、波風立てずになんとなく過ごすことをよしとしたり…まあ生ぬるい快適さを我々に提供する厄介なもの、ってことはわかるだろ?」
すごくわかります、と私が頷くと、宝ちゃんの場合は、その“惰性”が、変化を起こすこと阻んでいる気がする、と言われて、私はハッとした。
「……そうなのかもしれません」
燃え尽きた、動けない。もしまた失敗したら…?新しい環境や変化を起こすことが怖くて私は凪で静かな日常を、惰性で送ってしまっているのかもしれない。確かにそう思った。
「でも、その惰性を乗り越えるための、変わるための起爆剤になる感情が、今まさに宝ちゃんに起こってるんだと私は思うけどね。その感情が…モヤモヤだよ」
「…モヤモヤ、が…?」
アオハル連載ありがとうございました。本当に半年間すごく読むのが楽しみで大好きな連載でした。作者の方、きっと有名な小説家さんなんだと思いますが、出来ればお名前位は知りたかったなぁぁ。個人的に今まで一番好きだなと思ったのは、三茶食堂と成田空港の話だったけれど、アオハルもお気に入りに加わりました。ここまで読み応え抜群且つ面白くて翌週が待ち切れない連載はもう暫く読めないのかな…
今日で終わるけれどそれぞれの “続き話” を是非読みたいです。
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