2024.07.17
マティーニのほかにも Vol.7「てかテオ、お前もうグラス空じゃん!次何飲む?」
テオの空のグラスを見て、カイリがラミネートされた小さなメニューを放り投げてくる。
たった今までメニューの存在に気づいてすらいなかったテオは、お礼を言いながらメニューに目を通し、そして「Oh…」と小さく声を上げた。
ズラリと並んだ『Cocktail』の欄の、一番下。
誰も気づかないようなメニューの片隅に、「カフェ・コン・セルベッサ」と書いてある。
「カフェ・コン・セルベッサだ!」
カフェ・コン・セルベッサは、テオにとって日本以外のもう一つのアイデンティティーのある国・スペインのカクテルだ。
冷えたビールとブラックコーヒーを1対1の割合で注いだ、スペインのバルではお馴染みのカクテル。
ニューヨークでもお目にかかれることは少なく、早くに亡くなったテオの父が自宅で好んで作っては美味しそうに飲んでいたことを思い出す。
予期せぬ一杯を見つけて嬉しくなったテオは、瞳を輝かせながら意気揚々とカフェ・コン・セルベッサをオーダーする。
女性バーテンダーは手早くコーヒーとビールをグラスに注ぐと、「Enjoy!」とまたもや流暢な発音の英語でテオにグラスを手渡した。
キンと冷えたピルスナーグラスを引き寄せ、ドキドキしながら一口味わう。
くっきりとした苦味と切れ味が乾いた体に染み渡り、テオは思わず喉の奥から唸り声を絞り出した。
と、その時だった。
カイリの同僚が、不思議そうな顔でテオの手元を覗き込む。
「なにそれ?何飲んでるの?」
「カフェ・コン・セルベッサだよ、スペインでは人気のカクテルなんだ」
「ふーん…。どんなカクテル?」
「コーヒーとビールを半分ずつ混ぜたカクテルだよ」
ウキウキしながら伝えたものの、そこまで言った途端、男の顔が奇妙に歪んだ。
そして、眉根が寄るのを隠そうともしないまま吐き捨てたのだ。
「ゲェー、マジで?なんか…混ざってるなんて気持ち悪りぃな。コーヒーなのかビールなのかはっきりしろよ…」
「What…?」
『混ざってるなんて、気持ち悪りぃな』
面と向かって言われたそのセリフに、テオは衝撃を受けた。
胸にナイフが刺さっている。自分でも信じられないほどに傷ついている。
もちろん、テオのことを指したのではないことくらいわかっている。
それでも──。
スペインと日本のハーフとして生きてきたテオにとってその言葉は、我が身を重ねずにはいられない、辛い言葉だったのだ。
― ああ、俺…。なんでさっきまであんなに心細かったのか、完全に思い出した。
舌に残るコーヒーとビールの苦味が、そのまま苦い思い出と共鳴する。
アメリカにいても、スペインに帰っても、その国の人間にはなりきれない孤独に、テオはずっと悩まされてきた。
それは当然、日本も例外ではない。
『お前、何人?』
『なんで日本語下手なの?』
原宿での夏の思い出の中には、少年時代に投げられたそんな心無い言葉の数々も紛れている。
おもちゃ箱の中の、ガラス片のようなガラクタ。
その残酷な鋭利さから心を守るため、テオはいつのまにか「合理主義的で、信じられないほどドライ」な多国籍人としてのアイデンティティーを確立してしまっていたのだ。
― やっぱり俺みたいなやつには、どこにも居場所なんてないんだな。
たったの一撃で打ちのめされてしまったテオだったが、そんなテオの様子など意にも介さず言葉をかけてくる男がいた。
「テオ、結局何にした?」
明るい声の主は、カイリだ。皮肉にも、先ほどの男と同じセリフを投げかけられ、テオはがっくりとうなだれた。
「…カフェ・コン・セルベッサだよ、スペインでは人気のカクテルなんだ」
「へぇ〜、どんなカクテルなの?」
「…コーヒーとビールが、半分ずつ混ざってる…」
― はいはい、どうせその後に続く言葉は「気持ち悪い」ってとこだろ…。
けれど、身を固くして身構えるテオに、カイリは意外な言葉を投げかけた。
「へぇ〜!?なにそれ、めっちゃ最高じゃん!俺もそれ頼んでみるわ!」
言うや否や、カイリはあっというまにカフェ・コン・セルベッサを注文し、テオに向かってグラスを高く掲げる。
「イェーイ、カンパーイ!あっ、スペインのカクテルなら、サルー?ここは日本だし、融合してサルパイとか?まあなんでもいっか!」
そして、目にも留まらぬ速さで一気にグラスの中身を飲み干すと、「くぅ〜」と唸り声をあげながら弾けるような笑顔を向けるのだった。
「げぇ〜カイリ、気持ち悪くねぇのかよー」
「なーにが気持ち悪いんだよ!コーヒー、うまい。ビール、うまい。
うまいものとうまいものが合わさるなんてサイコーだろーが!」
先ほどの男からの苦々しい言葉にもあっけらかんと返すカイリの姿は、不思議とテオの心を晴らすだけでなく…ほんの少しの恥ずかしさを呼び起こすのだった。
― …そうだ。俺が、俺自信が自分を誇れなくて、どうするんだよ。
ふと、初めてリサの舞台を見た日のことを思い出した。
自分と同じ立場であるにもかかわらず、自分のアイデンティティーを誇り高く武器にして戦うリサに、一瞬で心を奪われた時のことを。
― せっかく俺に生まれてきたんだ。辛い思い出で、合理的でドライな人間になっちまったかもしれないけど…そんな“俺”という役を掴んだんだ。
あとは、このカクテルみたいに──出会う人たちを実力で唸らせればいい。
少し丸くなっていた背中を、テオは舞台役者らしくまっすぐ伸ばす。
そして、2杯のカフェ・コン・セルベッサを追加でオーダーし、眉をひそめる男に差し出した。
「そう言わず飲んでみてよ、ちょっと苦いけど、2倍うまいぜ。──Salud!(乾杯!)」
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▶1話目はこちら:国立大卒の22歳女。メガバンクに入社早々、打ちのめされたコト
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