2024.05.22
マティーニのほかにも Vol.2◆
黄色いダンボールが届いてから1週間。
あれからというもの翔平の毎日は、なぜだかうまくいかないこと続きだった。
くすぶっていた初恋の苦い思い出のことや、まわりに置いていかれまいと必死になっていた学生時代のことを思い出したからなのかもしれない。
仕事でも奇妙な焦りを感じて、つまらないミスをすることが増えてしまっているのだ。
「ま、小野寺にもこういう日はあるよな。あんまり気にするなよ」
「…悪い」
この日も凡ミスで周囲に迷惑をかけてしまった翔平は、暗くなったオフィスのロビーで、同僚に頭を下げる。
気分を切り替えるためにも、早く家に帰って睡眠をとったほうがいいのだろう。体も心も、ヘトヘトに疲れている。が、まだ家には帰りたくはなかった。
― 帰ればまだ、全然減らないはっさくがあるんだよなぁ…。
我ながらくだらないと思いつつも、その事実は翔平の心を重くさせる。
結局翔平は行くあてもないまま、会社近くの赤坂の繁華街をウロウロとさまよいはじめるのだった。
どうにもムシャクシャするような夜に翔平が訪れるのは、バーだ。
仲間とワイワイ集まって飲むのも好きだが、いつもどこか自分を偽っている感覚が付きまとう翔平にとって、好きなお酒を楽しみながら1人静かに過ごせるバーでの時間は、東京で知った中で最も気に入っている夜の過ごし方だった。
― 気分を変えるためにも、強い酒が飲みたいな。
いつもの三軒茶屋のバーに寄ることも考えたが、コンディションの悪いこんな時に、万が一早紀子に会ったら…と思うと気乗りがしない。
とにかく、最初に目についたバーに入ろう。そう決めた翔平は早速、赤坂の街角で見つけたバーに飛び込む。
正統派な雰囲気の暗い照明のなかカウンターについた翔平は、ほっと一息つく。
しかし次の瞬間、思いがけない一言をかけられるのだった。
「ミクソロジーバー、ですか?」
「はい、当店はミクソロジーバーでございます。
お客様がご注文のマッカランももちろんお出しできますが、もしよろしければ、当店自慢のミクソロジーカクテルをお試しになりませんか?」
いつも頼みがちなウイスキーのロックを頼んだところ、バーテンダーにそう言われたのだ。
「ミクソロジー」とは、「Mix(混ぜる)」と「Ology(学問)」を組み合わせた造語で、新しい概念の調理法のことを指すらしい。
ミクソロジーカクテルはつまり、新しい概念のカクテルのこと。
従来のカクテルのようにフレーバーシロップなどを使うのではなく、ハーブやフレッシュフルーツをふんだんに使用して、素材そのものの美味しさを引き出しているのだという。
「へぇ…」
ただ強い酒で自分を誤魔化したくてバーを訪れた翔平だったが、思いがけない提案に、心が動くのを感じた。
落ち着いて周りを見てみると、確かに周りの客も、見慣れないカクテルを手にしている人が多い。
「試してみようかな」
バーテンダー、もといミクソロジストにそう告げると、間をおかずに目の前にショートカクテルが提供される。
フレッシュな果実感を想像させる、黄色いカクテル…。
「いただきます」
そう言ってグラスに口をつけた翔平は、衝撃に襲われた。
― これ、はっさくだ!
「和歌山産のはっさくをふんだんに使ったミクソロジーカクテルです。マスカルポーネチーズと合わせました」
「美味しい…!」
自分のコンプレックスの象徴のような存在が登場したことに驚きを隠せないが、それ以上に驚いたのは、その未知の美味しさだ。
はっさくの甘みを感じるのはもちろん、そこにリキュールのアルコール感と、マスカルポーネチーズのミルキー感が合わさり、まるで味わったことのない深い味わいを醸し出している。
あまりの衝撃に言葉を失う翔平だったが、にわかに現実に引き戻される。翔平の後ろを通って入店した女性が、楽しげな様子で声をかけてきたのだ。
「お兄さーん、それ何飲んでるんですか?」
「あ、これ…はっさくのカクテルらしいです」
「えーはっさく!?めっちゃ美味しそう!マスター、私も同じのお願いします」
「はい、瑠美さん」
「瑠美さん」と呼ばれた女性は、慣れた様子で翔平と同じものを頼むと、翔平の隣に腰を下ろし、翔平に向かって言葉を続けた。
「ここ、めちゃくちゃ美味しいですよねぇ。いろんなフレッシュなフルーツ使ってて美容にもいいんですよ」
「そうなんですね…。恥ずかしながら、ミクソロジーカクテルって初めて知りました。フルーツも普段ほとんど食べないですし」
「そうなのぉ?ダメよ!いい?日本にはね、各地にいろんな美味しいフルーツがあるんだから!
ほら、和歌山のはっさくですって。超オシャレじゃない!」
そう言って瑠美さんは、翔平と同じカクテルを美味しそうに味わう。
翔平より少し年上の、30歳くらいだろうか。大人の色気を帯びているものの、その都会的で洗練された美貌はほんの少しだけ、学生時代のあの子の顔つきに似ていた。
瑠美の明るい雰囲気に感化された翔平は、おずおずと尋ねる。
「あの…はっさく、オシャレですか?」
「なに?オシャレよ」
「あの、たとえば彼氏がはっさく剥いてくれたら、ダサくないですか?」
「はあ?どこがダサいのよ。めちゃくちゃ優良物件じゃないの」
「そういうものですか」
「そういうものよ。お兄さん、何もわかってないわね〜。どんどん剥いていきなさい!女にはフルーツよ、フルーツ!」
「瑠美さん、もう少しお静かに…」
ミクソロジストにそう止められて会話を中断した2人だったが、瑠美の言葉を受けて、翔平はもう一度目の前のカクテルを見つめる。
これまでコンプレックスに感じていた思い出が、新しい価値観に混ざって溶けていく。マスカルポーネチーズのように、白く浄化されていく。
「そうか…。思ってもみない価値観って、まだまだあるんだ」
翔平はカクテルを飲み干すと、手早く会計を済ませ帰り支度を始めた。
未知の可能性がゴロゴロと詰め込まれた家に向かう道すがら、ずっと送れずじまいでいたLINEを綴る。
<早紀子ちゃん。はっさくのお裾分け、いらない?>
▶前回:国立大卒の22歳女。メガバンクに入社早々、打ちのめされたコト
▶Next:5月29日 水曜更新予定
出来上がった状態でバーに現れた瑠美。彼女の抱える悩みとは…
和歌山にもファミレスの類いは多くあると思うから、ラ・ボエムとかそんな感じのお店だったのかな? でも18-19歳ならちょうど良さそうなのに。はっさくをダサいと思うのもおかしいし。でもコンプレックスの象徴とも言えるミクソロジーカクテルと瑠美もおかげで前向きになれてなんだか微笑ましかった♡ 次は瑠美だけど、早紀子&翔平の今後も是非読みたい。
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