◆
週が明けた。
封書の中で折り畳まれた離婚届は、捨てることも破くこともできないまま。唐突すぎて、光朗に連絡を取ることもためらっていた。
幼稚園に花奈を送った後、1人で家に戻りたくなくて、楓はカフェに立ち寄った。
1人になりたくてやってきた場所だが、少し離れたところに幼稚園のママ友の姿を目にする。
― たしか、晴子さんだったかな。声、かけないでいっか。
楓は、気づかないふりをしながら窓際の席に座る。
幼稚園では、専業のママが多い中、彼女は送迎を実母に助けてもらいながら、フルタイムで働いているらしい。どのママ友のグループにも属さず、楓も深く話したことはなかった。
視線を外していたはずなのに、なぜかお互い目が合った。
「もし差し支えなければ一緒にいい?」
向こうから楓の方にやってきた。
「ええ、もちろん」と答えると、晴子はカップを持って移動してきた。
「いつもうちの娘が花奈ちゃんの話ばかりするの」
話してみると、晴子は口数多く、とても楽しい人だった。聞きかじったとおり、仕事があるので、幼稚園にはめったに来れないという。また、想像以上に幼稚園ではママ同士のコミュニティーが出来上がっていて、時々困ることがある、とも言った。
「私、みんなと境遇が全然違うのよ。フルタイムで働いてるし、バツイチだし。保育園に入れておけばよかったかもって、今更ながら後悔してるの」
「やだ、困ったら相談して。花奈と一緒にお迎えして預かることくらいできるし」
晴子との思いがけないお茶の時間に、楓の心はにわかに緩んだ。
なんでもない普通の会話が、ものすごく久しぶりに感じる。
ここ最近は、光朗が家から出て行ったことがママ友たちにバレるのでは…とビクビクしっぱなしの生活で、幼稚園の送迎も逃げるように済ませていたから。
けれど、人は自分と同じ傷を持つ人間に、心を開くのかもしれない。
あれだけ周囲にバレたくないと思っていた今の状況を、楓はなぜだか晴子には聞いてほしいと思った。
さして親しくもないこともあるだろうが、晴子が思ったよりも感じのいい人で気を許したこと。そしてなにより、先ほど晴子の口からでた「バツイチ」という言葉を聞き逃してはいなかった。
少しのためらいの後、楓は意を決して打ち明ける。
「私も、幼稚園のママ友たちには言えない事情が出てきてしまって…。最近、幼稚園行きたくないんだよね…」
夫から離婚を切り出されたことなんて、たかがママ友から打ち明けられたら、普通は困ってしまうだろう。
言った瞬間に、晴子に悪いことをした…という後悔の念が湧いたが、晴子の反応は予想とは違うものだった。
大げさな同情も、当たり障りのない慰めの言葉もなく、あっけらかんと言い放つ。
「は?いきなり、離婚届?ない。ないわー」
「やっぱ、ない?」
楓が聞くと、「ない。ない、ない!ありえない」とないないづくしで返す晴子。
思わず、楓はぷぷっと吹き出した。
「ありがとう。その反応、めちゃくちゃ嬉しい」
「でも、仲がいいと思っていたのに、いきなり離婚届じゃ楓さんもびっくりしたよね。晴天の霹靂、というか」
「ええ。だから、理由を聞きたい。それを聞いて、私が改善することで元に戻れるならそうしたい、って思う」
楓は、自分の口からでたその言葉に、自分自身でハッとした。
― そうだ。ポロッと漏れた、これが本音だ。私はただ、幸せだった元のあの生活に戻りたいんだ。
ようやく自分の気持ちが整理できはじめた楓の前で、晴子は自身の体験も交え語り始める。
「私の場合はね、ケンカが多くなって、相手が離婚をほのめかし始め、最終的には調停起こされちゃった。結局、財産分与の割合決めて離婚したのは1年半後」
「そういう感じなんだ…。私、ケンカとか全然なくて。むしろ、自慢の夫だったというか…。なのに、『突然驚かせて申し訳ありません。よくよく考えての決意です』と付箋が貼ってある離婚届がいきなり届いて…」
楓の話をひとしきり聞き終えた晴子は、こめかみがピキピキと筋走り、イライラした様子を隠せない様子で言った。
「付箋?妻のことバカにしてんの?娘のことをどうするとか、家をどうするとかって何もないわけ?」
驚く楓の手をぎゅっと握り、晴子は前のめりになった。
「楓さん。ぜったいに、ぜっったいに、簡単にハンコなんて押しちゃダメよ!」
子どもを育てるにはお金がいる。仕事をしていない専業主婦がそれなりに稼げるようになるには時間がかかる。
だから、元に戻れるならそのほうがいいし、もし無理ならできる限りのお金をむしりとってから別れるべき…というのが、晴子の意見だった。
「でもね、楓さん。これだけは言わせてもらえる?」
「なに?」
「はっきり言って、ご主人…ううん。その男、クズよ…」
「えっ?」
晴子は鼻息荒く、言い放った。
目下トラブルの渦中にあるとはいえ、人の夫を「クズ」と言い切る晴子の物言いに楓は面食らってしまう。
だって、今こんな目に遭っているのは、自分のせいだと思っていたから。夫が出て行った理由はわからないが、こうなってしまった以上、すべて自分に原因があると楓は思っていたのだ。
「クズって…彼、決してそんな人じゃないの。私、これまで何の不安もなくて…」
なんとなく居心地が悪くて光朗をかばってみるものの、楓は意外なことに気がつく。
心が、少しだけ軽い。
「自分のせいだ」というモヤモヤを晴子が否定してくれたおかげで、楓の心がふわっと軽くなったのは確かなのだった。
― 晴子さん、優しいな。こんなに親身になって怒ってくれるなんて。
目の前に、夫婦間の困難を乗り越えた人がいる。逆境に打ち勝って、力強く子どもを育て生活している。その事実に救われた気がした楓は、晴子に「話を聞いてくれてありがとう」と小さくお礼を伝えた。
けれどそれに対して、晴子は大きなため息をついて頭を抱える。
「ああ、ダメだ。楓さん、あなたお人よしすぎる。甘すぎるよ」
「え?」
「別れたくないんでしょ?今手元にある離婚届、どうするつもりなの?ご主人になんて返事するつもり?」
「それは…まだわからないけど、ゆっくり向き合わなきゃいけないって思ったよ」
「楓さん。ただ渋っているだけだったら、そのうち調停おこされて、話し合いで財産分与の割合を決めて離婚だよ。相手にいいようにされるその前に、対策とっておかないと」
「対策…って言われても…」
光朗と元に戻りたい。そのことにすらたった今気づいた楓にとって、晴子の言葉はまるで聞いたこともない外国語のようだった。
そんな楓を見かねた晴子は、しばらく押し黙ったかと思うと、まっすぐ楓と視線を合わせて、力強く宣言する。
「いいわ、楓さん。私が全部教えてあげる」
その熱く燃える晴子の眼差しに楓は、夫の帰りを待つだけの日々が遠のいていくのを感じた。
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この記事へのコメント
何の相談も無しに「有明に部屋を借りたんだ、事後報告で悪いんだけど」って。そこで何となく楓も怪しいと気付かないきゃ。 仕事が上手くいってない?重病? とか随分おっとり構えてるなと。