「け、研吾!」
短距離走の選手として名高かった研吾。当時は細身の体型だったのに、気持ちがっしりしている。
そのせいか、あの頃よりずっと頼もしい雰囲気をまとっていた。
「美羽子、久しぶり。何してるの?大学に来たの?」
「いや…このあと渋谷の方で打ち合わせで」
「俺も。今から表参道で打ち合わせで、せっかくだから近くに寄ろうと思ったんだ」
研吾は「おんなじ状況だな、すごいね俺ら」と笑う。
その顔に、美羽子の胸はギュッと動いた。
― ええ、こんな再会ある?
緊張で、顔が熱くなる。
美羽子は学生時代、誰にも言えずにずっと、研吾に恋をしていた。
いわゆるイケメンではない。けれど、自分にも周囲にも誠実で、いつも優しく声をかけてくれる。そんな人柄に惹かれていたのだ。告白しなかったのは、自分に自信がなかったからだ。
振られたら、きっと関係が壊れる。
同じサークルで仲良くやっている今が一番幸せだと思い、美羽子は気持ちを飲み込んだ。
「美羽子、打ち合わせのあとは何してるの?もし予定なければ飲みいこうよ」
「せっかくだしさ」と笑う研吾の誘いを、断る理由などなかった。
◆
打ち合わせが終わったあと『セラヴィ トウキョウ』で、乾杯をする。
ワイングラスを傾けながら、美羽子は研吾のことをそれとなく見た。
つややかなスーツ、SEIKOの大きな時計。
― すごい。なんか、人生うまくいってる人って感じ。
かつて同じ世界にいたはずの研吾は、遠いところに行ってしまったようだ。
「…研吾、今は何してるの?」
研吾は、大手証券会社の名前を口にした。
「去年の秋に転職したばかりなんだ。それまでは、新卒で入った自動車メーカーにずっといた」
研吾は大学時代の就職活動で、その証券会社に落ちたそうだ。ずっと未練があり、いつか絶対に入ると決めていて、今回ようやく叶ったのだという。
「美羽子は?」
キラキラした目で聞かれて、ギクリとした。
「…旅行代理店」
「今も変わってないんだね」
研吾の言葉に他意がないことはわかっているが、美羽子は少し居心地が悪くなった。
新卒からの同期は4割が転職していた。
きっかけは、主にコロナ禍。美羽子も、正直転職を考えた。
― でも、私はいいかな。
転職活動を頑張った先に、今よりいい世界はあるとも限らない。今だって別に居心地は悪くない。
…こんなふうに「やらない理由」を探すのが、習慣づいてしまっていた。
みんなが普通にやってのけることをできない自分に、美羽子の中でモヤモヤする気持ちもあるのだが…。
そのとき、研吾が2台重ねてテーブルに置いていたスマホのうちの1台が鳴り響く。
「あ。上司だ」
小声で「お疲れさまです」と言って颯爽と去っていく背中は、知らない人のように遠い。
美羽子は、窓から見える、渋谷の街に目を移す。
賑やかなネオンと裏腹に、気持ちは沈んでいた。
大学時代の友人たちの結婚報告、妊娠、出産。
会社の同期の出世。
― なんとなく引け目を感じるのよね。
特に羨ましくはないはずだった。
別に、結婚したい相手がいるわけでもないし、今の仕事で出世したいわけでもない。
「身の丈に合った毎日で、十分」
そう思うのに、やはりどこかで心がギュッとうずく。
◆
「ごめんごめん」
スマホを片手に戻ってきた研吾は、美羽子のために2杯目のグラスワインを注文してくれた。
美羽子と同じように、渋谷の街に目を移す。
「こう見ると、渋谷、変わったよな。新しいビルがどんどん建って、広告ビジョンも増えて。俺らがこの街にいた頃より、ずっと明るいなあ」
しばらく無言で景色を見ていると、研吾は「覚えてる?」と言った。
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