2022.12.23
プレゼントを開けたら Vol.1SNSに出てきた、“女性の新しいキャリア”を謳うwebデザインのオンラインスクールの広告が目に留まると、沙穂はすぐさま飛びついた。藁にも縋る思いだった。
しかし、入会金は10万円。悠史に素直に言えるわけがないし、自由に使えるお金もわずかしかない。
考えた沙穂は、27歳の誕生日にヴァンクリのヴィンテージアルハンブラを買ってもらい、すぐにメルカリに出品。オンラインスクールの入会金とMacBookの購入資金にあてた。
万が一聞かれたら、失くしてしまったと嘘をつこうと思っていたが、幸いにもアクセサリーやブランドの類に無頓着な悠史からは何も問いただされることはなかった。
そして、それから3年。
webデザイナーとして独立する日を夢見て、沙穂はこつこつと勉強を続けた。
次第に、小さな仕事をもらえるまでにスキルアップ。空いた時間にはバレない程度にコールセンターのアルバイトもこなした。
28歳のときに買ってもらったバーキンと、29歳で買ってもらったロレックスもすぐに換金。
とにかく、とにかく自分を自由にしてくれるためのお金とスキルを貯めていった。
そして、昨日―。
ついに、千葉の成田駅から徒歩20分ほどのところに部屋を借りた。小さなワンルームだ。
南青山のそびえ立つタワーマンションとは、家賃の桁が違う。部屋の広さも、築年数も、見える景色も、漂う空気も、何もかもが違う。
自分1人で生きていくためにはいくら必要なのか、それを稼ぐにはどれくらいのスキルが必要なのか、これでもかというほどにシミュレーションし、万が一に備えコツコツと節約と貯金を重ねてきた。
それでも、その家賃ですら払い続けられるのか、考えただけでも怖くてたまらなくなる。
それに、この東京を一望できる眺めが惜しくないと言われれば嘘になる。
でも―。
でも、またいつか、自分の力でここまで上がって来れるかもしれない。
そこに現実味なんてなくていい。ほんのわずかな可能性だったとしても、ようやく、ようやく自分の人生が始まるのだという実感が、沙穂にこの上ない高揚感をもたらした。
◆
12月25日。
「誕生日おめでとう」
リビングで、悠史はコーヒー片手に、淡泊に言い放つ。
なんでもない日常を、何事もなく、今日も過ごそうとしている呑気な横顔。最後の平穏を味わうかのように沙穂はしばし悠史を見つめ、そして勇気を振り絞って、言葉にした。
「今年の誕生日、これにハンコを押して下さい」
沙穂の声は震えていた。
永遠か、一瞬か。
緊張で感覚が麻痺した沙穂は、どれほど沈黙が続いたのかわからなかった。
けれど、そんな沙穂を見て、悠史が全てを悟ったことだけは確かだった。
「何が嫌だったんだ。俺は、お前のことを愛していただろ」
「私のこと、何もわかってくれていなかったでしょ…」
「…」
「…」
上手く言葉にならない。今まで我慢していた色んな事をぶつけたいような、もう全部早く終わらせたいような、不思議なもどかしさ。
「構ってやれなかったのはごめん。でも…もう少し考えてくれないか…」
沙穂は強く、首を横に振る。
悠史はしばし目を瞑った。
反省しているのか、現実を受け止めきれないでいるのか、その心のうちはわからない。
歪んだ顔からわかるのは、苦しそうにしているということだけ。
そして、おもむろに開いた悠史の口から飛び出したのは、沙穂にとって衝撃的な事実だった。
「会社、2つ潰してるんだよ…」
「え…」
そんなこと、一言も聞いていなかった。
仕事はずっと順調なんだって、てっきり思い込んでいた。
「クリスマスプレゼントは、忙しくてかまってやれない分、色々不自由させてた分の…、俺なりの愛情表現だったんだよ…」
臭いセリフも、愛情表現も、これまでほとんどしてこなかった悠史。そんな彼が小声ながらに絞り出したその言葉は、彼の本心だとわかった。
「知らなかった…」
「言えなかったんだよ…」
「…」
「カッコ悪くて…」
沙穂の頭が、一瞬真っ白になる。
「それでも…。そんな大事なこと、どうして言ってくれなかったの…」
「それはお前だって…」
悠史がクリスマスに沙穂に送っていたプレゼントは、悠史なりの愛のメッセージだった。それを、沙穂は悠史の元から飛び立つ資本としていたのだ。
「…」
「もう、手遅れなのかな…」
切なそうな表情を向ける悠史の言葉が、はじめて沙穂の心に突き刺さる。
一度は本気で好きだった人。
「…」
けれど、一度ずれた歯車は、そして離れてしまった気持ちは、もう修復できそうにない。
沙穂は、静かに、小さくうなずいた。
◆
トランク1つと大きなボストンバッグ。沙穂の荷物はそれだけだった。
「気を付けて」
悠史は、沙穂に最後の言葉をかける。
「うん…」
いつも通りの、淡泊な会話。いつも通り、沈黙が2人を包む。
そして、悠史はおもむろに沙穂に1通の封筒を差し出した。
「これ、困ったら使って」
札束の入った、なんとも無機質な封筒だった。
「え、こんなのもらえない…!」
「あって困るものじゃないだろ…」
「でも、こんなの…」
「応援してるんだよ」
悠史は目を逸らして、ボソリと言い捨てた。
沙穂の目には、大粒の涙が溜まる。
「ありがとう…」
沙穂は、消え入りそうな声でつぶやいた。
「じゃ、もう行くね」
「気を付けて」
最後の最後まで不器用ながら愛情表現をしてくれた悠史を、沙穂はもう直視することができなかった。
歩き出した瞬間に、ぶわっと涙が溢れ出る。
本当にこれでよかったのか。悠史の想いに気づかなかった、気づこうとしなかった自分だって十分悪かった。いつからならやり直せたのだろう…。
自分の選んだ選択が正しかったのか、沙穂はもうよくわからなかった。
けれど、色んな思いを掻き消すように、沙穂は強く、強く歩みを進めた。
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