2月1日、始業前。
私は、大手製菓会社の広報部で働いている。デスクから一番近い化粧室は、いつにも増して混み合っていた。
あちこちから聞こえてくる、メイクポーチの中身をカチャカチャとあさる音。鏡の前は、ビューラーで念入りにまつ毛を持ち上げたり、ファンデーションを塗り直したりする同僚たちでひしめき合っている。
私の所属する広報部は、社内でも美人が多い部署で知られているのだが、この日はみんな一段と華やいでいた。
香水の匂いが混じって、ムッとする不快な空間になっていることを除けば、同性から見てもうっとりするような美しい女性たちの集まりだ。
しかし、香水の匂いのことで少しでも嫌な顔をしてしまうと、感じが悪いと言われて後々角が立つ。女性が多い職場には、面倒くさいことも多い。
「おはようございまぁーす♡」
わざとらしいくらいの明るい声であいさつし、偶然空いた鏡に自分の姿を映した私は、息を止めながらサッと髪の乱れを直した。
― そうそう、このトイレの照明って微妙なんだよね。ここでメイクをすると、失敗すると思うんだけどなあ。まあ、そんなこと教えてあげないけど。
私は今朝、自宅で使っているLEDライト付きの女優ミラーの前で、入念にメイクを済ませてきた。今さら焦って、マスカラやチークを塗る彼女たちとは、気合の入り方が違うのだ。
「ねえ、もう来てるかな?」
「どんな人なんだろうねー」
そんな浮足立った会話が聞こえてくるなか、私は“余裕のひとり勝ち”だと確信した。
すると、次の瞬間、トイレの個室から同期の七瀬が出てきたのだった。
こちらをチラッと見ると、我関せずといった冷めた様子で手を洗い、オフィスへ戻っていく。
― 七瀬って苦手。何か、私たちのこと小ばかにした感じなんだよね。でも、彼女って飾り気がないのに、キレイなのよね…。
七瀬は、目鼻立ちがはっきりした美人顔で、ナチュラルメイクにパンツスーツというシンプルな格好をしていてもパッと目を引く。そして、真面目で仕事が丁寧で上司からの信頼も厚い。
気に入らないけれど、気になる…。そんな七瀬の存在が、私をいつもモヤモヤした気持ちにさせるのだ。
せっかくの優越感に水を差されると、ついふてくされた顔になってしまった。そんな私の視線の先には、見慣れない背の高い男性がウロウロ歩き回りながら、オフィスの様子をうかがっていた。
― あっ!もしかして…。
私はその男性に近づくと、彼の方から話しかけてきた。
「あの、今日から広報部でお世話になる一ノ瀬です。部長はもう出社されていますか?」
ダークグレーのスリーピーススーツ。真っ白の仕立ての良いシャツを着こなしたその男性こそが、私やほかの女性社員たちを浮き足立たせた張本人。
一ノ瀬英琉(えいる)は、この会社の次期社長。いわゆる御曹司だ。
― ちょっと…社内報の写真より、100倍かっこいいんだけど!
~長谷川七瀬(27)の憂鬱~
仕事始めから数日の1月半ば。
私が働く大手製菓会社は、2月のバレンタイン商戦を前に多忙を極めていた。
新商品が発売されたり各種イベントが控えていたりするため、広報部はマスコミやお客様への情報発信、対応に追われるのだ。
毎年この時期になると、皆から疲労といら立ちが感じられるのだった。
だが、今年はどこか様子が違って、同僚たちはやけに色めき立っている。
心ここにあらずで、仕事のケアレスミスも目立つ。そのたび、フォローをする羽目になる私は、ひとりでイライラしていた。
特に、同期の紗良はひどいものだ。気がつけば、手鏡に自分を映して満足げに眺めては、仕事の手を休めている。
確かに、紗良は女の子らしくて可愛い。良く言えば世渡り上手の甘え上手なのだが、彼女は計算高いところが見え隠れする。私は好きなタイプではないのだけれど、他部署の男性社員には彼女のファンが多いらしい。
― そんな暇があるなら、このメールの返信してくれたらいいのに。はあ…。
ここ最近、ため息をついてばかりだ。
そこへ部長がやってきて「頼みたい仕事がある」と言うものだから、思わず眉間にシワを寄せてしまった。
「長谷川さん、来月からうちの部署にくる一ノ瀬さんの教育係をお願いしてもいいかな?まぁ、たったの3ヶ月だけなんだけどね」
「私がですか?え、でも一ノ瀬さんって…あの一ノ瀬さんですよね?」
この記事へのコメント
チヤホヤされても本命には選ばれないタイプだな。