2021.11.01
「あれ、莉子さん…?」
「あ、矢野くん!」
莉子と目が合った人物。それは事業戦略室で28歳にして最年少出世を果たした、社内のエース・矢野くんだった。
こんなところで同僚に出くわしたことに驚きを隠せない莉子だったが、今はそれどころではない。
たった今耳にしてしまった「冬のボーナス減額」という衝撃の噂が頭から離れなくなった莉子は、むしろ相手が知り合いなのを良しとして、その噂の真相を確認することにした。
「ねえねえ、今の話…。ボーナス下がるって、それホント?」
真剣な眼差しで迫る莉子に、先ほど泣き言を言っていた同僚が答える。
「あ、はい。この業績だとおそらくそうなりますよね…。このあいだ、組合でも話題になっていたんです」
どうやら現実となりそうな悲しいニュースに、莉子は思わず頭を抱えた。
― そんなぁ…。今年は冬のボーナスで絶対、銀座にある、あの憧れの高級寿司に行くって決めてたのに…!
ショックを受けた莉子は、すっかり焦げてしまったハラミを横目で見やり、箸を置く。そしてお会計を済ませると、フラフラと店をあとにした。
秋の夜の空気は、炭火で感じた暖かさとは打って変わってひどく冷たい。外で頭を冷やした莉子は、どうにか気を取り直して考える。
― いやいや、そもそも”おひとりさま”なのに、少しでも贅沢しようなんて考えがダメだったのよね…。
でも、女性がひとりで生きていくためには、一体いくらの備えが必要なのだろう。
現在、年収600万で貯金は500万。30歳の女性にしてはそこそこ上出来なつもりでいたけれど、こうして不測の事態が起きると、まだまだ頑張らないといけないことに気づかされる。
昔から、ひとりが好きだ。
女性が一生ひとりで生きていくのには、十分なお金が必要。
改めてそんな現実と向き合わざるを得なくなった莉子は、思わずがっくりと肩を落とす。
でも、どれだけ落ち込んだって仕方がない。ひとりで生きていくことは、あの日、自分自身で決めたことなのだ。
◆
「莉子は、俺がいなくてもなんでもひとりでできるだろ」
2年前に言われた、婚約者からの残酷な言葉がフラッシュバックする。
彼に浮気され、婚約破棄したのだ。
手元に残った500万円の結婚資金とともに、莉子は“プロのおひとりさま”として生きていく決意をした。
恋愛という、不確かでリスクのある事象に踊らされない人生は、自由で心地良い。その反面、今みたいにどうしようもない不安に襲われることもある。
― 私、本当にひとりで大丈夫なのかな…。貯金は頑張ってるけど、贅沢もあまりできないし、正直言うと時々寂しいし、お金のことも将来も不安だよ…。
思わず莉子の口から大きなため息が溢れた、その時。
「莉子さん!」
大きな声で莉子を呼ぶ声が聞こえた。振り返るとそこに立っていたのは、さっきの店から走って追いかけてきてくれたのだろう、息を弾ませた矢野くんだった。
「なんかすごく具合悪そうに出て行かれたんで、心配で…。莉子さん、大丈夫ですか?」
心配そうに声を掛けてくれる彼を前に、莉子の口からは、思わず弱気な言葉が出てしまう。
「矢野くん…。私、大丈夫じゃないかも…」
落ち込み切った莉子の悩み相談に、矢野くんは温かいコーヒーとともに、とことん付き合ってくれた。
「貯金は500万あるんだけど、このくらいのペースで貯金を続けていけばいいのかもわからないし、なにをしても不安で……」
「なるほど…。でも、ちょっと意外です」
「えっ、どういうこと?」
「いや、貯蓄だけなんて超堅実なんですね。莉子さんってすごく仕事できる人だから、投資とか、もっとお金の運用をしてると思ってました」
ひとしきり不安を吐き切った莉子に対し、矢野くんは不思議そうな表情を浮かべてそう答える。
しかし莉子は、“投資”という響きに、過剰に反応してしまうのだった。
「だって、投資なんてリスクじゃない!怖くて手が出せないよ」
そう、婚約破棄をしたあの時。平穏に、堅実に生きていくことを誓った莉子にとって、リスクは最も避けるべきものなのだ。
だがそんな莉子の反応を見た矢野くんは、飄々とした様子でスマホを操作しながら言葉を続ける。
「なるほど。じゃあ莉子さん、ちょっとお金の勉強してみるといいかもしれないですね」
そう言いながら矢野くんが差し出したスマホの画面には、あるオンライン・マネーセミナーの詳細が表示されているのだった。
無意識だろうが、顔をぐっと近づけてきた矢野くんに、思わずドキっとした。
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