東京エアポケット Vol.2

仕事を休んだ女は、都心のホテルへと向かい…。平日昼間にだけ許される、婚約者にも秘密の時間

浜野桃子、29歳。上智大学を出て、現在はある製薬会社のマーケティング部で働いている。

ずっと都内の実家で暮らしていたが、2年前から人形町で一人暮らしを始めた。

付き合って1年半になる彼・雅人は、徒歩10分のところに住んでいて、いわゆる“巣ごもり愛”を楽しんでいる。

公私ともに順調、だった。…少なくとも、昨日までは。


迎えた木曜日。

「お疲れさまでした。午後はお休みをいただきます」

仕事を終えた桃子は、オフィスを後にしてタクシーに乗り込んだ。向かったのは『マンダリン オリエンタル 東京』だ。

今日は、ホテル内のレストラン『センス』を予約している。贅沢な“おひとりさまランチ”をする予定なのだ。

「お待ちしておりました。どうぞこちらへ」

案内されたのは、東京を一望できる窓際の席。さすがは高層階。窓の外に広がる景色は、晴天も手伝って息を呑むほど美しい。

うっとりと外を眺めていると、すぐにシャンパンが運ばれてきた。

― 私、お疲れさま!

声には出さず、心の中でひとり乾杯する。

一口飲むと、自然に頬が緩んだ。午前中、ヒィヒィ言いながら死に物狂いで仕事を片付けてきた甲斐があった。

平日昼間からシャンパンを飲む背徳感と幸せに、桃子は酔いしれる。だが今日の目的は、ただランチを楽しむだけではない。

「さて、と…」

桃子は、この4日間に起きた出来事を思い返した。



月曜日の夜。

「俺、12月から大阪へ転勤になったんだ」

夜ご飯を食べ終え、2人でテレビを見ていたとき。雅人が、おずおずと切り出してきた。その瞬間、テレビの中から「辛い、辛すぎるぅ~!」と騒ぎ立てる芸人の声が響く。

激辛好きな桃子は、四川料理特集に見入っていたのだ。しかし彼のただならぬ雰囲気を感じ取り、すぐさまテレビを消した。

「…えっ?」

何を言っているのか、正直わからなかった。

雅人は、大手不動産会社に勤務している。全国や世界各地に支店があるものの、基本的には出張がメイン。当面は東京勤務だと、本人も言っていたはずだ。

「大阪で大規模な再開発案件があるんだけど。それにアサインされることになったんだ。正直、俺も驚いてる」

「そ、そう…」

青天の霹靂とは、まさにこのこと。混乱した桃子は「そう…」と繰り返すことしかできない。

すると雅人が、桃子の手をギュッと力強く握りしめてきた。

「桃子、大阪についてきてくれないか?」

― え!?っていうか、今プロポーズされた…?

予期せぬ転勤でパニックになっていたところに、まさかのプロポーズ。脳が処理できる範疇を超えたのだろう。桃子の頭の中は真っ白になってしまった。

ひとまず落ち着こうと、テーブルに置かれたティーカップに手を伸ばす。

「きゃっ!」

だが、手元が狂って紅茶をこぼしてしまった。

「ご、ごめん。いろいろビックリしちゃって…」

慌てて謝る。すると彼は、テーブルにこぼれた紅茶を拭きながら「そうだよな。ごめんな」と、ポツリとつぶやいたのである。

雅人が謝る必要はないはずだ。彼に申し訳なさを感じさせていることが情けない。だが、すぐにプロポーズの返事をすることもできなかった。

「少し時間がほしいの」

今の桃子は、こう答えるのが精一杯だった。

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