献身的な妻
柳川 貴也(やながわ たかや)、32歳。
今でこそIT企業の社長として成功を収めているが、ここに至るまでは決して平坦な道ではなかった。
小さい頃から運動も勉強も、何においても“普通”レベル。そんな無個性な自分が、ずっとコンプレックスだったのだ。
−何か一つ、秀でたものが欲しい。
常々そう思っていた貴也は、大学で受けたある授業をきっかけに一念発起し、起業することを思い立つ。
しかしすぐにうまくいったわけではなく、成功するまでに10年近くかかった。
大学を卒業してからも、企業には就職せずにがむしゃらに頑張った。
学生時代から、複数のサービスやアプリを開発・リリースしてきたが、そのどれもが苦労の割には実入りが少なく、かろうじて生活出来るというレベルの収入。
25歳を過ぎてからは、諦めた方が良いのではないかと幾度となく考えた。引き際を間違えれば、自分の人生は台無しになる。そんな不安に苛まれた。
だがタイムリミットが迫る中、28歳の時、貴也はついに黄金の鯛を吊り上げたのだ。
今や若者たちの間で大人気のゲームアプリで、一気に億万長者へと上り詰めた。
成功を掴むことができたのは、当然、貴也自身がここまで必死で努力してきたからだ。だが貴也は、それだけだとは思っていない。
−自分が成功出来たのは、妻のおかげだ。
妻の美香(みか)とは、学生時代からの付き合いである。
大学の必修クラスが一緒だった彼女と付き合い始めたのは、大学2年の春頃。すでに貴也が起業に向けて動き出していた時だった。
多忙でデートに行くことが出来なくても、「一緒にいられるだけでいいから」とわがままを言うこともない。控えめで優しく、穏やかな彼女だった。
大学卒業後、美香はメーカーの一般職に就職した。
貴也は相変わらずフリーで、稼ぎが少ない状態が続いていたが、美香は「私、料理が好きだから」と言いながら手作りのお弁当を作ったりと、前向きに貴也を支えてくれた。
貴也自身、将来を見据えることができず、別れようと思ったこともある。しかし美香はいつも「貴也の可能性を信じているから」と言って、笑って応援してくれていたのだ。
今でこそ、彼女にはとんでもなく先見の明があったのだなと思うが、当時は「ただの情で一緒にいてくれているんだろう」と貴也ですら思っていたし、その辛抱強さには驚かされた。
苦節10年、ようやく会社が軌道に乗ったところで、二人は結婚した。
結婚してからも、美香の献身的な態度は変わっていない。今朝の朝食のように家事も完璧にこなし、いつも貴也をサポートしてくれている。
−美香には感謝しかないな。
「記念なんだしちょっとくらい良いもの買ってよ」と、美香が初めてわがままを言ったカルティエの結婚指輪を見つめながら、物思いに耽る。
彼女との結婚生活に、不満などあろうはずがなかった。
学生時代から、フリーの苦しい時代も文句の一つも言わず支えてくれた妻。頭が上がらないとはまさにこのことだろうと、貴也は思っていたのだ。
…そう、今日までは。
この記事へのコメント
夫の会社が不安定なときから生活を支えるためにこっそり夜系のバイトをしてて、今は好調とはいえどうなるか分からないから稼げるうちにと続けてるとか、そんなんじゃない?
ずーっと控えめにしてきたんだから