女は、一生に一度必ず恋に落ちる。
“オトナな男”に。
特に20代前半、社会人になりたての頃。
ヒヨコが生まれて初めて見たものを親だと思うように、先輩や上司に恋焦がれ、社内恋愛にハマる女性は多い。
だが場合によっては、その先にはとんでもない闇が待っている場合もなくはないのだ。
都内の人材派遣会社に内定した咲希(23)もその内の一人。
彼女は、学生時代の清く甘い時間から、少しずつ、でも確実に大人の世界の苦味を知っていく……。
―私って…もしかして遊ばれていただけ…?
真っ赤に泣き腫らした目で、咲希は呆然と鏡の前に立ち尽くす。
咲希はふと、まだ希望で満ち溢れていた、入社してすぐの頃のことを思い出した。
新入社員1年目、咲希23歳
春のまだ少し冷たさの残る暖かい風に、溢れんばかりにモコモコと咲いた桜が揺れる。
風が吹くと花びらたちが、まるで誰が一番か競争しているかのように高く高く舞い上がっているのだが、そんな景色は、渋谷の13階の窓からは望めそうにもない。
新入社員の高宮咲希は、エレベーターでビルの13階に着き、右も左もわからないまま、辺りをキョロキョロしていた。
◆
―半年前。
「あたし、春から東京行くわ」
大学4年生の夏、咲希は、大阪駅近くにあるカフェで唐突に告げた。
「……は?」
大学1年生の冬から付き合っている彼氏の村田悠は、あまりに急な咲希の発言に、顔をしかめる。
「だから、内定もらった会社で、来年から東京で働く」
世間では売り手市場で就職活動に有利、なんて言われているが、それを感じられる学生なんてごく一部だ。面接しては不採用の連絡を受ける毎日である。
苦戦に苦戦を重ね、ようやく咲希が手にした内定は、東京の人材派遣会社。関西ではまだあまり耳にしないが、東京では名の知れた企業だ。
咲希にとっては、やっとの思いで手に入れた内定。大阪から離れてしまうという理由だけで手放すわけにはいかなかった。
反対に悠は、咲希と同じ大学の理工学部に所属しており、ゼミの教授のコネクションで早々と就職活動を終えていた。
咲希の苦労を誰よりも近くで見てきた悠には、東京行きを止められる理由がない。
「そうか。おめでとう。ちょっと寂しくなるけどな」
「何言ってんの。もう3年も付き合ってるのに、大丈夫に決まってるやん」
咲希は、両手でアイスコーヒーのグラスを持ちながら笑顔で言う。
グラスを持った手は、結露で濡れてしまっていた。大丈夫だって、と笑いながら、少し濡れた手で肩で跳ねている焦げ茶色の毛先を触った。
東京に行くまでの半年間は、お互い明るく振る舞いながらも、減っていく春までの時間を惜しむように過ごした。
…だが“サヨナラ”の瞬間は予想以上に呆気なく、そして辛く、これから待ち受ける厳しい社会人生活への第一歩に思えた。
この記事へのコメント
そういう話も面白いけど、今後の展開が楽しみでーす!