―3月下旬
新大阪駅に東京行き新幹線が、強い風を連れて入ってきた。咲希は思わず、大きなスーツケースを握りしめる。このまま何かの手違いで通り過ぎてくれないだろうか。そんな思いが咲希の頭をかすめる。もう一本、後の新幹線にすれば良かった。
「新幹線、来たな」
「うん」
意味のない会話が繰り広げられる。お互い、これ以上口をきくことが怖かった。無情にも、新幹線は徐々にスピードを緩め、見事なまでにぴったりと停車する。
「じゃあ、行くわ」
咲希は、スーツケースを両手で押して前に進む。
「うん、行ってらっしゃい」
そう言いながら、悠は咲希の背中にそっと手を置いた。指先だけでトントンと背中を押す。
東京と大阪。新幹線でたった2時間半の距離。3万円でお釣りがくる何でもない距離だが、大学を卒業したての二人にとっては国境を越えるほどの距離に感じた。
「頑張って」
「うん、ありがと。ごめんね」
悠が手を離すと、咲希は振り返って、笑顔で言う。
「じゃあ」
新幹線に乗る咲希の後ろ姿を眺める。咲希の肩甲骨まで伸びた黒色に染め直した髪は、下の方だけカールされている。くるりんとした毛先だけが嫌味のように陽気だった。
新幹線のドアが閉まり、徐々にスピードを早めていく。
新幹線の小さな窓から手を振る咲希をホームギリギリまで追いかける、というドラマのような展開にはならない。所在なさげにホームに佇む悠の姿がちらっと小窓から見えただけだった。
◆
「高宮さん、やるじゃない!」
そんな悠との別れから1ヶ月。フロアにいる社員たちが思わず振り返ってしまうほど大きな声で叫ぶのは、咲希が配属された営業部のチーフマネージャーの前川梨江子だ。
梨江子は、30歳にしてチーフを務めるという異例の出世をしているが、一見そんなに仕事ができそうには見えないから不思議だ。
咲希はひそかに観察しているが、誰にも気付かれず、よく机の角に太ももをぶつけては「イテッ」と言っている。また美人というよりは可愛らしい顔立ちで、とても30代には見えない。それでも、営業成績は入社当時からトップクラスで、そのギャップに咲希は密かに憧れていた。
「早速新規のお客さんゲットじゃない!すごいわ!」
梨江子は、大袈裟に咲希を褒める。
「へぇ、高宮さんやるじゃん」
そう言って背後から声をかけてきたのは、企画部のマネージャーの吉沢圭太だった。圭太はいま、入社5年目の28歳。マネージャーという肩書もあるせいか、咲希にはずいぶん大人に見える。
企画部は、営業部と仕事の立場上一緒になることが多く、圭太はたまたまその場に居合わせたのである。
「すごいね、頑張ってるね」
圭太は咲希にそう話しかけてきたが、その距離があまりに近く、思うように言葉が出てこない。彼は優しく、ドキドキして目が合わせられなかった。
「いやでも、ほとんど前川さんのおかげで・・・。」
やっとの思いで返事をしたが、いつの間にか圭太は咲希の元から離れ、梨江子と雑談を始めていた。
3日前、マネージャーから渡された営業先リストに片っ端から電話をかけていくテレアポ業務で、咲希は緊張の余り上手くしゃべれずモゴモゴした口調になってしまった。
あまりのたどたどしい様子に、電話先の担当者に「何を言っているのかわからないから上司と代わってくれ」と言われる始末。結局、梨江子に電話を代わってもらい、そのまま梨江子が交渉して訪問までこぎつけたのだった。
そして、今朝早くから梨江子に同行訪問し、契約を決めてきたのだが、梨江子はその実績を、全て咲希の手柄としてくれた。
「この調子で頑張ってね」
梨江子は、満面の笑みで咲希を見つめた。こんな女性になりたい、と心底思う。
だが咲希は、その梨江子の言葉に「はい」と言いながらも、先ほどの圭太とのやり取りが頭から離れなかった。
この記事へのコメント
そういう話も面白いけど、今後の展開が楽しみでーす!