「困ったわ…もしかして菱木さん、お入りになれない?」
「本日配布したお手紙は、連絡網です。まずはご自宅の近いお友達と仲良くなるように、お住まいが近い方を同じグループにしています。園のお手伝いも、しばらくはグループ単位が多いのでよろしくお願いします」
悠理はなんとか引っ張り出してきた紺のセットアップに着替え、幼稚園にとんぼ帰りすると、11時、すでに担任の降園の挨拶が始まっていた。
―夏休みまで、お弁当なしの9時登園11時降園…。これは思ったより大変だわ…。
周囲に倣ってしぶしぶ履いた冠婚葬祭用の黒いセルジオ・ロッシで園庭に穴を空けないように気を付けながら、悠理はそっと周囲を見回した。
母親たちは、どうやら送ったあと帰宅せず、近くでお茶をしていたようだ。すでにいくつかのグループに分かれて親し気に笑いさざめいている。
そのうちに、一人ずつ子どもの引き渡しが始まった。
先生が理子の目の高さにかがんで挨拶をすると、理子も空気を読んでいるのかにっこり笑って「ごきげんよう、先生」と返した。
「ご、ごきげんよう、先生。明日もどうぞ宜しくお願いします」
―生まれて初めてごきげんようって言ったかも…。
悠理がむずがゆい思いを飲み込みつつ理子の手を引くと、菱木さん、と呼び止められる。
振り返ると、朝に見かけた、政界プリンス妻が笑みを浮かべて立っていた。
正面から見ると、華奢な体つきに黒目がちな目が上品さを引き立て、2児の母親とは思えないほど可憐だった。同い年くらい…30代前半であろうか。
「ごきげんよう、初めまして。東郷 雅の母、綾子と申します。元麻布に住まいがありまして、菱木さんと同じ、麻布エリアグループでございます」
悠理は丁寧に頭を下げた。なんとなく、住んでいる場所を申告したほうがよさそうな気配である。
「初めまして、理子の母の、菱木悠理と申します。よろしくお願いいたします。十番に住んでおります」
「こちらこそよろしくお願いいたしますね。菱木さん、これから麻布グループと白金グループの皆様でランチに行くことになりました。お時間あれば、ご一緒にいかがですか?」
とっさに悠理の頭に浮かんだのは、「面倒くさい」という言葉だった。しかし0.5秒で打ち消して、邦彦の言葉を思い出す。「今日ランチに誘われたら、断るな」。
悠理は、仕事で重要取引先に向けていた笑顔以上の笑顔で、うなずいた。
「ぜひご一緒させてください」
「良かった。じゃあ15分後、アメリカンクラブでお会いしましょう」
綾子は艶然と微笑むと、会釈をして立ち去ろうとする。悠理は慌てて尋ねた。
「あの、麻布台のアメリカンクラブのことでしょうか?あそこは会員制ですよね…?」
東京アメリカンクラブは、審査が厳しいことで知られる格式高い会員制クラブで、在日アメリカ人の富裕層を中心に、財界の重鎮たちも名を連ねるような超がつく名門クラブである。
確か入会金は350万円、月会費も数万円ときいた。
「あら?菱木さん、もしかして…お入りになれない?困ったわ、他の皆さんはもう車で出てしまったの…。ヒルズクラブにしたほうが良かったかしら?」
東郷綾子は、そんなことは全くの想定外だという風に眉をひそめた。つまり悠理以外は、全員東京アメリカンクラブのメンバーということか。
ちなみにヒルズクラブだって、悠理が入れないことに変わりはない。
「でも、会員と一緒ならお入りになれるから…よろしければ私がお連れしますわ。子どもたちのためのプールやボーリング場もあるからきっと楽しいと思います」
「お手数をおかけして申し訳ありません…」
―予想以上に、場違いだ、私…。どうしてこんなところに理子を入れようって言ったの、邦彦君…。
運転手に電話をかけ始めた綾子の背中を見ながら、悠理は本日何度目かの「呆然」を味わっていた。
「菱木さん」
電話を終えた綾子が、車に向かいながら前を歩き、にっこりと振り返る。
「このランチでちょうど麻布・白金グループの皆様がお揃いなので、役員も推薦できればと思っています。考えておいてくださいね」
―役員…?PTAの役員のことかな?
悠理は目をしばたたかせながら「はい」とうなずき、理子の手を引いてついていく。
それが、恐ろしく重大な伏線だとも気づかずに。
▶NEXT:9月21日 金曜更新予定
麻布・白金グループママランチ@東京アメリカンクラブ。普通じゃないママ友と、普通じゃないマウンティング合戦開始。
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