名門幼稚園出身の夫が与える、初日の「鉄の掟」
「邦彦君!送り迎えも"紺縛り"だって、どうして教えてくれなかったの!?浮きまくってるよ、私、初日なのに!」
理子を玄関に送ったあと、次々と親子を送迎する高級車の横をすり抜ける。速足で遠ざかりながら、悠理は矢も楯もたまらず夫に電話をかけた。
「ええー?だってそんなの常識じゃない?悠理さん、何着ていっちゃったの?昨日のセットアップ、今日もアレで良かったのに」
「あんなの入園式用でしょう、14万円もするスーツ、もうとっくにクリーニングにだしたよ!」
悠理より16歳も年上で、今年で49歳になる夫・邦彦が、電話の向こうで明らかに笑いを噛み殺している。
「まあまあ、お迎えまで2時間くらいあるでしょ?着替えに戻ったらいいじゃない。僕は仕事場に缶詰めだから行けないけど、帰りに『富麗華』あたりで美味しいランチ食べなよ」
「あ…ごめんね、原稿締切近いのに、つい焦って電話しちゃった…」
悠理は我に返って、急速に怒りの勢いを失う。
「大丈夫、今日は筆が乗らなくて、まだ集中してなかったから。でもこのあとしばらくは電話にも出られないと思うから、悠理さんの声が聴けてよかったよ」
夫の邦彦は、作家だ。
大学卒業以来、単行本がコンスタントに出版されるそこそこ人気の作家だった。とは言え、本が売れない時代である。8年前に結婚した頃の年収は最高で1,000万円ほど。新作を出さない年は数百万円ということもあった。
それでも悠理は、いざとなったら自分が稼ぐと腹をくくって一緒になったのだ。
邦彦の実家は都内にいくつか不動産を所有しており、一部の物件を賃貸にも出している。困窮したらそのうちの1室に住まわせて貰えればと、邦彦が楽観していたことも事実だった。
しかし、理子を妊娠した頃、4年前に事態は急変する。
邦彦の小説が、映画化され、大ヒットしたのだ。
シリーズ化したコンテンツの原作者として取材を受けるうちに、ダークで陰鬱、骨太な作風の作者が、意外にもノリが良く三枚目―。そのギャップが受けて、テレビのコメンテーターとして起用され始めた。
今では作家としてよりもむしろ使い勝手の良い文化人として認知されている。
「邦彦君がどうしても理子は幼稚園に行ってほしいって言うから、会社辞めてまであなたの出身幼稚園に来たのよ?私はあのまま区立保育園でよかったのに」
十分な収入を得るようになって、邦彦が仕事場として使うワンルームにほど近い麻布十番に引っ越すと同時に、たっての願いとして彼から提示されたのが、「娘の理子を自身の出身幼稚園に通わせること」だった。
共働きで、生後半年から2歳まで、8時~19時を保育園で過ごす理子を、育児に疎い邦彦なりに案じたのかもしれない。
悠理もまた、日々仕事と育児に追われる中で、これまでの価値観が少しずつ転換していくのを感じていた。
元来器用でない悠理は、仕事と育児にそれぞれ100%注力できないことがことのほか堪えるのだ。邦彦の提案を前向きにとらえ、しばらく育児に全力で取り組んでみようと思った。
育児後、同じレベルの仕事に戻ることはかなわないだろう。しかしそれでも、何かを選ばなくてはならない。
「名門幼稚園の世界なんて、知らないことばっかりなんだから、私が変なことしてたらちゃんとアドバイスしてよ」
「わかったよ。ごめんね。…じゃあさっそくアドバイス。『もしも今日、ランチに誘われたら、断るな』」
「え?だってさっき、理子と『富麗華』でも行ってきなよって言ったじゃない」
「だからさ、新しいお友達とみんなで行っておいで。まずは敵を知れ、でしょ?」
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