結婚。
それは女性にとって、人生を変える大きな分岐点である。
IT関連企業でコンサルタントを務める真子、29歳。彼女にも、その分岐点がついに訪れた。
しかし真子の心には、小さなトゲのようにチクリと刺さる、忘れられない過去があった。
「僕と……僕と、結婚してください」
目の前に座る圭一は、真っ赤な顔をして恥ずかしそうに、しかし力強く真子に言った。膝の上に置いてある手はぎゅっと握られていて、肩は小さく震えている。
今日は、付き合ってちょうど1年の記念日。
圭一は、真子と同じ会社でエンジニアをしている、3歳年上の32歳。身長は170センチほどの痩せ型で、眼鏡の奥の少し垂れがちな一重瞼の目が好きだった。
性格は真面目で誠実。少し頼りないところはあるものの、真子の知る限り、誰よりも優しい男だ。
「え…」
真子は驚きのあまり、一瞬言葉を失ってしまった。
普段は和食派の圭一が、今日は珍しく表参道に新しくできたフレンチレストラン『レヴォル』を予約したから、と言った時は、「何かあるのかな」と思っていた。けれど、まさかプロポーズだったなんて…。
(※『レヴォル』は、現在閉店しております。)
「だ…、ダメかな?」
驚きを隠し切れていない真子に、圭一は少し不安そうに問いかける。そしてその時、「あっ」と思い出したように紙袋からバラの花束を取り出し、真子に差し出した。
「これ…108本もないけど…」
表参道に新しくできたレストランに、真子の好きなスプレーバラが散りばめられた花束。
きっと圭一なりに、真子が喜ぶように一生懸命考えてくれたのだろう。けれど紙袋から慌てて花束を出すあたりが、なんとも彼らしい。
その心のこもったプロポーズに、普段は冷静な真子も珍しく心を揺さぶられている。そして何より、穏やかな圭一との未来を待ち望んでいる自分がいることに気づき、ホッとしたのだった。
「…よろしくお願いします」
その返事を聞いた圭一は、みるみる表情を緩ませ、「本当!?良かった!」と心底安堵しているようだった。
少年のように素直な反応をする彼を見て、真子の心はじんわりと温かくなった。
…しかしバラの花束を受け取った瞬間、その懐かしい香りに、心の奥にしまってあったある思い出が、どっと溢れ出した。