マナミは当時、溜池山王にある外資系化粧品メーカーで仕事をしている、ごく一般的な女性だった。
港区の華やかな女性と並んでも引けをとらないくらいの美人ではあるが、どこか儚げで、楽しそうに笑っていてもふとした時に寂しさを滲ませ、少しの危うさがある。
それが、どうしようもなく藤本の心を揺さぶった。
「私、今付き合ってる彼と結婚したいんです」
そうして相談される度に、藤本は複雑な思いでマナミの話を聞いた。
決して「好きだ」とは言えなかった。言うと、彼女を困らせてしまいそうで、失ってしまいそうで、怖かったのだ。
マナミは彼氏とケンカした夜に、今日のように突然藤本を呼び出すことが多かった。
マナミのそれは、とても褒められた行動ではないとわかっていても、男女の関係は好きになった方が負けなのだ。
バーに呼び出されて、カクテルを2〜3杯飲んだら、彼女はタクシーに乗って消えてしまうとわかっていても、彼女からの誘いを断ることはできなかった。
「藤本さん、いつもありがとう」
タクシーに乗る時、彼女は必ずそう言って藤本の前から去るのだった。
◆
木曜日の21時前、左腕のパテック・フィリップを確認して藤本はタクシーを降りた。
今日も多くの人が行き交う、外苑東通り。信号が変わる度に、人が一気に道路へなだれ込む。その見慣れた光景でさえ、今日はなんとなく違って見える。
これから、数年ぶりにマナミに会う。その非日常的な出来事が、藤本をわずかに高揚させるのだ。
藤本は、ホテルに入るとまずはお手洗いに向かった。
一度自宅に戻ってシャワーを浴びたかったが、打ち合わせが続いた今日、そんな余裕はなかった。
鏡の前でいつものように髪を整え、カバンから『Kunkun body』を取り出し、耳の後ろにかざす。スマホに表示された結果を確認すると、鏡を見ながらネクタイの位置を微調整した。
最後に、ふうっと大きく息を吐き出し心を落ち着ける。
人妻となった彼女に会うのは、今夜が初めてだ。
最後に会ったのは4年前、彼女が32歳の時。36歳になったマナミは、どうして急に自分を誘ってきたのか。
昔のように、夫とケンカしただけなのか、それとも別の用があるのか…。思いを巡らせながら、藤本は45階へと向かった。
「藤本さん、お久しぶりです」
バーに入ると、マナミはすでにカウンターに座っていた。
彼女はゆっくりと藤本を見ると、口元を緩めて微笑む。だが、その顔には寂しさが滲み、幸福そうな人妻にはとても見えなかった。