SPECIAL TALK Vol.40

~“人の移動”までも劇的に変化する未来がもうそこまで迫っている~

週末にものづくりを行う日々。そして、大企業を退社

金丸:日産では、どのような部署に配属されたのですか?

杉江:神奈川県の厚木市にあるテクニカルセンターのデザイン本部です。

金丸:まさに、念願どおりの部署になりましたね。

杉江:でも2年半で退職することになりまして……。

金丸:それはまたどうして?

杉江:端的に言うと、私が土日にしていた活動が副業にあたったのです。

金丸:副業って、どんなことをされていたんですか?

杉江:土日にいろんなものを作っていたんです。日産でのデザイン業務はやりがいがあったのですが、もともとものをつくることが好きだったので、会社の業務以外に、ものづくり集団「Sunny Side Garage」を立ち上げて活動していました。そこで、WHILLの共同創業者である内藤淳平や福岡宗明とも出会いました。

いつも20人ぐらい集まって、週末や夜に勉強会をしていましたね。「懐中電灯なしでホタルをきれいに見たい」という思いから、ホタル観賞用ライトの開発を相模原市役所に提案したり、風を可視化するしくみを作ったり、珍しいところでは、ペットボトルの蓋を開けやすいように改良したりもしていました。

金丸:でも週末限定で、しかも本業のビジネスを脅かしたわけじゃないですよね。それでも、許してはもらえなかった。

杉江:そうなんです。ほかの活動をやめて日産に残るか、日産を出てほかのものを作るのかという、ふたつの選択肢しかない状況になってしまいました。そこで、外に出るということを選びました。

金丸:今や政府が副業、兼業を開放すべきだと動き出しています。社員が会社以外の様々な場で活動し、社会に貢献していることをアピールしたり「こんな面白い人がこの会社にいる」とPRすることも増えています。それが会社のブランディングにもつながりますし、働き方も多様化していますからね。杉江さんのやられていた活動は、少し時代を先取りしすぎていたのかもしれませんね。

中国滞在と世界放浪を経て、4年ぶりの日本帰国

杉江:そうして会社を辞めたあとは、すぐ中国に渡りました。

金丸:それもやはり何か目標があってのことですか?

杉江:これから世界と戦うには、中国語が必須だと考えたんです。日本人がいないところのほうが鍛えられるだろうと、南京に行きました。

金丸:北京や上海じゃなくて南京ですか。歴史的な経緯があるから、日本人は少なかったでしょう。

杉江:全然いませんでしたね。中国語がまったく話せないまま行ったのですが、中国の人は結構優しい人が多くて何かとかまってくれて、家も見つけて。日本語の講師をしながら、非常に楽しく過ごせました。

金丸:お話を伺っていると、杉江さんはリスクテイカーですよね。「やらまいか」の精神をすごく体現されている。

杉江:確かにそうかもしれません(笑)。意識はしていないのですが。

金丸:南京にはどれくらい?

杉江:1年半ほどです。中国語もかなり話せるようになりました。

金丸:その後は日本に帰国を?

杉江:いえ、2年ほど世界中を旅していました。ラオス、パプアニューギニア、ウズベキスタン、ボリビアの4ヵ国をだいたい半年ずつ回って、ほぼ4年ぶりに帰国したときには、日本に住む家がなくて(笑)。

金丸:そうですよね(笑)。どうやって生活していたのですか?

杉江:1年ぐらいは日産時代の友達の家に泊めてもらっていました。東京や神奈川の友達のところを、その日の都合に合わせて点々と。暇だったのでエンジニアやデザイナーの集まりにも参加し、週末はアパートの一室で、自分たちが作りたいものを作っていました。ちょうどその頃、車椅子の方と話す機会があり、「100メートル先のコンビニに行くのを諦めるんだ」という話を聞いて、衝撃を受けたんです。

金丸:ちょっと大変だとしても、そのくらいの距離なら大丈夫じゃないかと思ってしまいますよね。

杉江:僕もそうでした。「どうしてですか?」って聞くと、まず車椅子に乗ることに心理的なためらいを感じるのと、段差や坂道があると行くのが大変だからと。じゃあカッコ良くて、操作性もいいプロダクトを作ってみようと、その集まりにアイデアを持ち込んだのが始まりです。2010年のことです。

金丸:それがWHILLの生まれるきっかけになったのですね。

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