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「えっ?撮影の貸し出しに、間に合わなかった…!?」
翌日の夕方、打ち合わせを終えて会社に戻ろうとしたとき、社用携帯が鳴った。同じチームの後輩からだった。
今日の午後、ファッション界で一番権威のあるモード誌に貸し出す服が数点あった。しかし午前中に返却予定のものが戻って来ず、午後の撮影への貸し出しに遅れてしまった、という報告だった。
夏希は今日、六本木の店舗へ行く予定があったため、後輩にそれを託していたのだ。
それを聞き、みるみる血の気が引いていく。撮影を担当するスタイリスト・樋口恭子はかなりの大御所で、怒らせたら大変なのだ。
「それで、先方は何て言ってた?」
どう謝罪しようかと、あれこれ考えを巡らせる。
「…さとみさんが、樋口さんの連絡先を知っていたみたいで、直接届けて謝ってくれました。撮影自体には間に合って、樋口さんも怒っていなかったようです」
安心した夏希は、大きく息を吐いた。
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「さとみ、今日はありがとう」
会社に戻り、夏希はさとみにすぐお礼を言いに行った。
「ううん。この間樋口さんがショールームに来たとき、今度飲みましょうって話になって、プライベート用の携帯の番号聞いてたの。役に立って良かったぁ」
ニコニコしながら言うさとみに、思わず本音がこぼれた。
「さとみってすごいよね。色んな人とすぐ仲良くなれて、羨ましい」
その言葉に、さとみは驚いたように大きく目を見開いた。
「ぜんっぜん、そんなことないよ…」
そして肩をすくめながら、こう続ける。
「私、PRとしてまだまだだって、いつも菜々子さんに怒られるんだよね。ショールームで何でこの服の皺に気づかないんだ、とかしょっちゅう言われる。
夏希ちゃんは細部への気配りが抜群だって、菜々子さんはいつも褒めてるわ。だから私は、夏希ちゃんが羨ましいよ」
さとみもそんなことを考えていたのか。そう思うと、肩の力が抜けていった。
「…それは、私も同じよ」
「え…?」
夏希だって、すっと人の懐に入っていけるさとみのことが、羨ましくてたまらなかったのだ。
「今度、私も樋口さんと飲みに行きたいわ」
「本当!?夏希ちゃんがそんなこと言うなんて、珍しい」
さとみは、満面の笑みを浮かべる。初めて、本音で話せた気がした。
夏希は、いつも「完璧な自分でいたい」というプライドが邪魔をして、本音で話すことが苦手だった。
しかし今だったら、さとみの魅力を素直に認められる気がした。
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週末、夏希は光一とのデートの約束のため、メイクをしていた。
今日は3回目のデートだ。会う前に美容室にも行こうと、早めに支度にとりかかる。
―よし、これでいいかな…。
夏希は鏡に映る自分の顔を、まじまじと見た。
さとみと菜々子さんに触発されて使いだしたCHICCAで、夏希のメイクは大きく変わっていた。
頬は自然と赤くなるように上気し、元々赤い唇は艶やかに濡れている。女性らしく見違えた目の前の自分はとても生き生きした表情で、少し強気な顔立ちが活かされてセクシーに見えた。
“アラを隠すためではなく、自分の良さを引き出すメイク”を教えてもらったことで、メイクの時間はぐんと楽しくなっていた。
このメイクを初めてした日、光一からは「この間より全然いい」とお墨付きをもらっている。
―光一くんと会うの、もう3回目か…。
光一と会うのが楽しみであると同時に、複雑な気持ちもあった。
たしかに光一に惹かれてはいるものの、だからと言って孝之のことが嫌いになった訳ではない。果たして自分の気持ちは孝之と光一、どちらにあるのだろうか。
そんなことを考えながら支度を済ませ、家を出ようとしたとき。まるで夏希の気持ちを察するかのように、孝之から連絡があった。
―夏希、今夜会えないかな?
ここ2週間ほど、孝之はこうやって何度も連絡をくれていた。
そのメッセージを見て、夏希は瞬時に計算した。今日、光一は友人の結婚式に行っているので、食事ではなく軽く飲む約束だった。美容院の予約をキャンセルすれば、2時間くらいの余裕はあるだろう。
―約束あるんだけど、2時間くらいなら大丈夫。
孝之と会って、ちゃんと自分の気持ちを確かめたい。返信してすぐ、美容院へキャンセルの連絡を入れた。