橘を前に、可奈子はしばし考える。
10,000人以上いる社員の中で、このチャンスに恵まれる人間は一体何人いるのだろう?
そんな限られたポジションに自分が相応しいと思って貰えたことが、素直に嬉しかった。
昔から、自分から周りにアピールするタイプではない可奈子は、口には出さないが自分の働きがちゃんと評価されているのか不安を感じることがあった。
―ちゃんと見ててくれた人がいたんだ。
嬉しさで自然と目頭が熱くなった。それと同時に、もっともっと頑張らないとな、と可奈子の内なる闘志に火がついた。
食事をしながら、橘はかつて自分がNYで働いていた時の話を色々としてくれた。
当時は寝る間も惜しんで働き、複数のディールを成約させたらしい。
「ディールが人を成長させる。間違いなく仕事は大変だけど、なるべく多くの案件を経験出来る場所に身を置けば、ぐんぐん成長出来ると思うよ。」
「家族を帯同してもらってもいいし、もし単身赴任だったら、夫婦で周辺の国を旅行したり、色々と楽しんでもらいたいと思う。」
橘は熱心に可奈子にNY行きを勧めた。
―橘さんは、本当に私のことを推薦してくれてたんだ…。
やや説得しにかかるような口調が、可奈子にそう感じさせた。
きっとこの辞令が出るからには、推薦していた部下が行かなければ、橘にとっても面倒な事になるに違いない。
自分の決断で尊敬する上司に迷惑をかけたくはなかった。
◆
「…何で、今なの~?」
食事を終え、別件があるという橘とブリックスクエアで別れた後、可奈子は一人になった途端、思わず呟いてしまった。
だが、1年前にこの辞令が出ていたら清とは出会えなかった。そう考えると今辞令が出たことがありがたくも感じられた。
ーもしかすると、まだ子供もいない今がラストチャンスなのかもしれない。
ー行きたいって言ったら、清は何て言うんだろう…
可奈子の夢だからと応援してくれるかもしれない、と淡い期待を抱きつつも、きっと奥さんが単身海外に行くなんて嫌に決まっている、と不安になる。
それに橘は、行かないという決断をしたとしても可奈子の意思を尊重すると言ってくれたが、その言葉をどこまで鵜呑みにしていいのだろうか。ドメスティックな会社で辞令を断るなんて、許されるとも思えなかった。
チャレンジしたいという思い、断ることへの不安、自分を推薦してくれた上司への義理…
可奈子の頭の中を物凄いスピードで色んな思いが駆け巡っていた。
ーとにかく、清と話してみるしかない。
可奈子は思いきり息を吐き出し、携帯を取り出して清にメールを送った。
“帰ったら重大な話があるの”
それだけ送信すると、可奈子はまた歩きだした。
この記事へのコメント
最低限結婚前に話すことでは?
健康な子が生まれる保証もないし。
どこかで何かを諦めざるを得ない。
女性も男性も。
諦めた向こうに、得難い幸せがあるかどうか…
短時間で決めるにはおおごと過ぎる。