佳乃が、産休に入る前と同じ部署に戻れたのは、この会社では珍しい方だった。育休から復職し時短勤務になると、会社からは“戦力外”とみなされてしまい、それまで通りの部署には戻れないケースも少なくない。
時短勤務とは、子どもが3歳になるまで原則1日6時間の短時間勤務をすることができる制度で、育児・介護休業法の「短時間勤務制度」に定められている。
勤務時間が減れば、収入も当然減る。佳乃の会社では、6時間の時短勤務にすると給料とボーナスは約25%がカットされる。
佳乃が住む目黒区は保育園激戦区のひとつであり、共働きで夫婦それぞれの実家が遠方であっても認可保育園には入れられなかった。
認可保育のキャンセル待ちに名前を並べながら、今は認可外にあかりを預けている。そのため、保育料も馬鹿にならない。
給料が減った上に、高い保育料。下手したらマイナスになることもあると聞く。
それでも、手にしているやりがいのある仕事を、そう簡単に手放すつもりはない。
もともと完璧主義の佳乃は、仕事も家事も育児も、妥協せずに完璧にこなすつもりだ。母として、妻として、女として、どれひとつ手抜きするつもりはない。
「時短勤務だから」と気を遣われるのも嫌だし、同僚に迷惑をかけないよう精一杯頑張るつもりだ。
時短勤務を良く思わない人たちがいるのも十分わかっている。だからこそ余計に、佳乃は自分を奮い立たせた。
デスクの上の整理を終えると、メールチェックを始めた。数日前からのメールが溜まっており、受信トレイには200件以上が未読として表示されている。
それはうんざりするような数であるが、佳乃の勤務時間は限られており、1分1秒が惜しい。早く感覚を取り戻したい気持ちもあり、片っぱしからメールを開く。
未読のメールを半分ほど確認した時、遠くから耳に響く甲高い声が聞こえた。
「佳乃さ~ん、おかえりー!」
その声を聞いて、佳乃はとっさに身構えた。間違いなくそれは、ゆり子の声だからだ。
急いで立ち上がり、派手なワンピースを着ているゆり子に頭を下げた。
「ゆり子さん、ご迷惑をおかけしました。本日からまた、よろしくお願いします」
「はーい、よろしくね。佳乃さん、そのまま辞めちゃうんじゃないかと思ったけど、戻ってきてくれて嬉しいわ~。あ、でも時短だっけ?大変だと思うけどフォローはするから頑張ってね」
言いながらゆり子は、佳乃のデスクにあるセリーヌのバッグをすかさずチェックした。
―フォローするって言いながら、助けてもらったことは一度もありませんけど……。
心の中で、小さく悪態をつく。
「佳乃さん、さっそくだけどミーティングできる?」
そう言われてミーティングスペースへ行き、しばらく雑談した後「じゃあ、これやっておいてくれる?」と言って渡されたのは、各担当者から上がってきた資料をひとつにまとめる作業だった。今までは派遣の女性にお願いしていたような仕事だ。
「え、これを私がやるんですか?」
佳乃が聞くと、ゆり子はにこりとして言った。
「だって、時短だから。今までと同じ仕事はお願いできないでしょ?じゃあ、よろしくね」
それだけ言うと、きつい香水の匂いを振りまきながら、さっさと自分のデスクに戻ってしまった。
ゆり子からの嫌がらせは想定してはいたが、あまりに当然のようにそれをしてくる彼女に、呆れながらもやはり、憤りを感じずにはいられなかった。
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ゆり子が嫌がらせをしてくる理由と、佳乃との関係とは?
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