忘れられない香り Vol.3

ミステリアスな男を思い出す「ジョー マローン ロンドン」。見てはいけないノートの正体

「最後のキスは タバコのフレーバーがした ニガくて切ない香り」

宇多田ヒカルも、かの名曲「First Love」でそう語り始める。

嗅覚の記憶というのは、触れたことよりも鮮明に脳が覚えている。街で、かつて好きだった人の香りが鼻をかすめ、後ろを振り返ったことが、誰しも一度はあるだろう。

そんな“忘れられない”思い出を、呼び覚ますのはどんな香りだろうか。

微かな香りを嗅ぐことで、追憶の彼方に追いやられていた記憶が走馬灯のように蘇ってくる。これまで、「ブルガリ マン」の彼を思い出した佳恵子、「クロエ オードパルファム」の女に翻弄されたの話を紹介した。

今回は、「ジョー マローン ロンドン」の香りにまつわる、樹里(28)の話。


クサい言葉を言いのける、ミステリアスな男


「ねえ、その香りって、ジョー マローンのブラックベリー&ベイ コロン? 僕もこの前買ったよ」

渋谷駅前の交差点近くに停めたポルシェ カイエンを見掛け、樹里が急いで助手席に乗り込むなり、工(たくみ)はそう尋ねた。

『渋谷ヒカリエ』の1階にある『ジョー マローン ロンドン』の店舗で、ずっと気になっていた「ブラックベリー&ベイ コロン」のテスターを振りかけて出てきたところだった。

工とは、友達の紹介で知り合ってから、2か月が過ぎようとしている。2歳年上で、185cm近くある身長に、潔癖かと思うほどの清潔感、少しパーマがかかった髪に、いつもほのかに香りを纏っていた。そして、何を考えているのかよく分からないミステリアスな感じが樹里にはたまらなく魅力的だった。

ただ、週に1度は仕事終わりに会っているにも関わらず、ふたりの関係性は未だにはっきりとしない。28歳にもなれば、軽々しい言葉でお互いの関係を確かめるよりも、沈黙に耐えられて、ときどき熱く視線を交わせられれば、それだけで十分なんじゃないかとすら思うようになった。

彼にはデートしている特定の子がいるかもしれない、と他の友人から聞いていたが、工自身は周りに彼女はいないと話している。ふたりの関係にメスを入れるようなことは恐くて出来ない。

15分ほど車を走らせると、都庁前近くにある彼のマンションに着いた。神戸の芦屋に住む両親が、彼のために購入したマンションだという。彼の部屋は、玄関を開けるといつもいい香りが漂っていた。

この日玄関に足を踏み入れると、洋梨とフリージア、アンバーやウッドの爽やかで深みのある新しい香りがした。

部屋の奥に入っていった工に何の香りか尋ねると、「ジョー マローン ロンドン イングリッシュ ペアー&フリージア」のディフューザーだと言う。樹里が今使っているコロンと同じだ。

彼の洗面所には、いくつも香水のボトルが律儀に並べられている。その中に、「ブラックベリー&ベイ コロン」のボトルが新たに仲間入りしていた。

「この時期になると、色んな香水を着けたくなるんだよね」そう言って洗面所に入ってきた工は、樹里の髪に「ブラックベリー&ベイ コロン」を吹きかけて後ろから抱き寄せると、耳元で呟いた。

「ねえ、この香りは僕たちの香りにしようよ」

そんなクサい言葉も、工なら簡単に言いのけてしまうのだった。

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