香織もまさに同じことを考えていた。ラムちゃんを昔の恋人と、子どものように可愛がっている彼の姿を想像すると、それを素直に受け入れることは簡単ではなかった。直人に好印象を持っているだけに、その思いは強かった。
最初のデートではラムちゃんや香織の実家にいる猫の話で盛り上がったが、肝心の恋愛話はほとんどしていない。まだ想像でしかなかったが、嫌な予感しかしなかった。
3回目のデートの夜、初めて彼の部屋へ泊まった。その日は彼から連絡が来て、末広町の焼き肉『生粋』へ連れて行ってもらった。食事が終わると、「これから、ラムを散歩に連れて行くんだけど、よかったら香織ちゃんも一緒にどうかな?」と誘われた。
一度彼のマンションへ行き、ラムちゃんを連れ出し夜の散歩が始まった。JRの高架下をくぐり昭和通りも越えると和泉公園に着いた。ラムちゃんのリードを長めに伸ばして、香織と直人は並んでベンチに座った。
隣には三井記念病院があり、窓にはまばらに明かりが点いていた。その奥に見えるタワーマンションを指差しながら、彼は言った。
「今の部屋を決める時に、あそこにあるタワーレジデンストーキョーと迷ったんだよ。でも、窓が大きくて開放的な方が良かったから、今のマンションにしたんだ。隣のUDXもご飯食べに行くのに便利だしね。」
彼は何も悪くないのに、その当時の彼の姿を思い浮かべると、見たこともない昔の彼女の姿を想像し、胸がざわついた。
2回目のデートで、やはりラムちゃんは当時の彼女と一緒に飼い始めたことを知らされていた。それどころかさらに、今住んでいるマンションで同棲もしていた。別れの理由は相手の浮気だそうだ。多忙な彼にあまり構ってもらえず、寂しさからの浮気だったと彼女は泣いて謝ったらしいが、彼は許さなかった。それから何人かと付き合いそうになったが、落ち着いた恋愛はそれ以来ないと言った。
だが、直人は今でもたまにラムちゃんの写真を彼女に送ったり、さらにはラムちゃんと会いたがる彼女のために、秋葉原近辺で彼女に会う事もあるのだとさらりと言った。
彼の部屋に泊まっても、部屋中に彼女の思い出がこびりついているようで何だか落ち着かなかった。このタオルも、食器も、お風呂も、ベッドも、そしてラムちゃんにも、彼の周りの全てに彼女との思い出があり、それが完全に切れていないと思うと、やり場のない嫉妬で苦しくなった。
彼にとっては過去の話でも、この部屋でラムちゃんを見る度にこんな感情を持ってしまう自分が嫌で結局、本格的な交際には至らなかった。
「この歳になって、何言ってるの?」
真希に、直人とのことを話すとやはり、想像通りの反応が来た。30の大台が目の前に迫り、焦りはあった。だが、自分はきっと大丈夫だという根拠のない自信もまだ、心のどこかにあった。
日比谷線の女
過去に付き合ったり、関係を持った男たちは、なぜか皆、日比谷線沿線に住んでいた。
そんな、日比谷線の男たちと浮世を流してきた、長澤香織(33歳)。通称・“日比谷線の女”が、結婚を前に、日比谷線の男たちとの日々、そしてその街を慈しみを込めて振り返る。






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