シェアハウスの家賃は共益費込みで5万9,000円。7万円の部屋もあったが、一番安い部屋にした。
15人が住めるこの家は、香織以外には6人がすでに住んでおりその内3人が女性だった。
居住者との交流を深めるつもりのなかった香織が、自分の部屋から出ることはほとんどなかった。食事は外で済ませ、シャワーとトイレの時だけ、そろりと部屋から出た。
なんだか引きこもりのようだと思いながら、初めの1週間をそうして過ごした。
だがやはり同じ世代の男女だから、香織が作ろうとした壁は完成する前に崩れ去り、いつの間にかシェアメイトたちと打ち解けていた。
その中の一人、翼は香織や周りの者を圧倒させた。
彼は大手不動産会社の法人営業をしている、名古屋出身の24歳。香織よりも半月先にこの部屋に住み始めたそうだ。都内のシェアハウスを渡り歩き、行く先々で友人や知人を増やし人脈を広げたいのだと言う。
さらに毎日のように合コンや街コンにも参加し、彼の友人、知人の数は日々更新されているようだった。
翼はとにかく社交的な人間なのだ。一度会ったらもう友達。合コンや街コンに行っては男女問わず友達になり、友人の輪を広げるのだ。休日であれば昼に街コン、夜は合コンとはしごするのは当たり前。
行く先々で友人を作っては、彼らを別のパーティに誘っていた。
街コンの場合、おそらく主催者から幾らかのマージンを得ていたのだろうが、それに対して腹をたてる者はいなかった。なぜなら彼を介して行けば高めに設定されている男性の参加費が割引されたからだ。
参加費が安くなる上に、翼が気配りしてくれるためつまらない思いをしなくて済むのだ。
女性との会話が盛り上がらずに四苦八苦しても、気になる女性となかなか話せないとやきもきしていても、さりげなく翼が間に入り場を盛り上げたり女性を連れてきてくれるのだ。
次第にタワーマンションに住み、パーティルームを提供してくれる友人も数人できたそうだ。
若くてそれなりの容姿を持った女性であれば、1度や2度タワマンパーティに誘われるのは意外と簡単だ。だが、普通の会社員の若い男性がそういう場に参加するのは、難易度が高い。
一定以上のステータスを持っていないと呼ばれない上に、仮に呼ばれた所で肩身の狭い思いをするだけだ。
だが翼は普通の会社員のまま、その世界に足を踏み入れ、その世界を堂々と闊歩しているのだ。
翼に連れられ、タワマンパーティに参加した女性のシェアメイト曰く、
「翼君は気配りがすごいし誰に対しても絶対に態度を変えないの。だからあんなに色んな人から好かれるんだと思う」。
男性に対して少しの不信感を持っていた香織は、にわかには信じられず、彼の人柄には半信半疑だった。
◆
北千住に慣れてきたある日の休日、香織は駅のすぐそばにある喫茶店『サンローゼ』に行ってみた。
昭和感たっぷりのノスタルジックなムード溢れる店内でケチャップ味のオムライスを頬張っていると、翼が店に入ってきた。
香織に気づくと待ち合わせでもしていたかのように、右手を上げ笑顔で近づき、向かい合って座った。
「香織ちゃんもこの店に来るんだね。僕もここ好きなんだ。なんかこの昭和っぽい雰囲気、落ち着くんだよね。昭和の頃の記憶なんてほとんどないのに」
そう言って目を少し細めて無邪気に笑った。
香織は以前から不思議に思っていたことを聞いた。
「何のためにそんなに人脈が欲しいの?」
「まだわかんない。あえて言うなら、いつか何かをしたくなった時のためかな。東京にはすごい人がたくさんいるんだから、東京じゃないと知り合えないような人たちをたくさん見たいんだ。でも、単純に人が好きなだけってのが大きいかも。」
翼は遠くを見ながら、楽しそうにそう言った。
彼の言葉を聞いて、香織は上京した当初口癖のように言ってた言葉を思い出した。「東京でしかできない恋愛がしたいの」だ。
北千住には宿場町通りという商店街があり、その周辺には昭和から続く大衆居酒屋や立ち飲み屋があるほか、女性が好きそうな、小洒落たバルやビストロも点在する。
北千住の飲食店は窓が大きい店が多い印象がある。そのため、どんなお客がどれくらいいるのか、店の内装や雰囲気はどうかということが分かり、初めての店でも臆せずに入りやすかった。
敷居が高くなく「とりあえず、食べて行きなよ。みんな大歓迎!」とでも言ってくれているようにさえ思えた。
気取らず、人情味溢れる下町気質ってこういうことかなと、商店街を歩くたび、香織はこの街を好きになっていった。
ある日、香織は真希を北千住に呼んだ。北千住で一番人気と言われる『徳多和良』へ連れて行き「なんでも食べて。申し訳ないくらい安いけど本当に美味しいから」と行ってご馳走した。
結局その後は串揚げの『天七』から東京三大煮込みの一つと言われる『大はし』と北千住の有名なお店を回り、最後にカラオケまで行った。3軒目だけは真希がどうしてもと言うので、ありがたくご馳走になった。
カラオケでは、なんだか高校生にでも戻ったように、思い切りはしゃいだ。真希への感謝の気持ちを伝えたくてDREAMS COME TRUE の「サンキュ」を歌おうとしたが冒頭から涙が溢れて声が出てこず、結局ほとんど真希が歌ってくれた。
—何も聞かずに 付き合ってくれて サンキュ—
—“好きだったのにな” 言っちゃった後 泣けてきた—
10代の頃、制服を着て歌っていた曲を、北千住で号泣して目の周りを黒くしながら歌おうとするなんて夢にも思わなかった。あの頃の自分がこの姿を見たら卒倒するかもしれない。
だが、タイトスカートに身を包みピンヒールを鳴らしながら六本木を歩く自分も、下町のカラオケで号泣している自分も、どちらも案外嫌いじゃなかった。
ピンヒールで1日過ごせば、やっぱり足は痛くなって、駅から家へ帰る途中の道で脱ぎ捨てたくなったことは何度でもある。
だがそれでも、次の日もやはりピンヒールに足を入れる。
恋愛だって同じことなのかもしれない。どんなに痛い思いをしても、女はそれを捨てることができない。ピンヒールも恋愛も女性を綺麗にする魔法だ。28歳の香織が、ピンヒールを手放すのはあまりにも早すぎる。
翼のバイタリティに富んだ性格は、香織に上京当時の野心を思い出させてくれた。当時の口癖は「東京でしかできない恋愛と、仕事をするんだ」に変わった。
東京にいる理由を一つでも多く作りたくなったのだ。誇りを持てる仕事も、大人の女性の武器の一つだ。






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