昼近くに目を覚ますと、隣で陽介がまだ鼾をかいていた。香織は裸の自分に気づき、慌てて服を探し、起こさないようにこそこそと着た。散らかった部屋を見ても、乾いた喉を潤せるような飲み物は見当たらない。
同じ九州出身という親近感からか昨夜は少しだけアリかなとも思った彼だが、口を開けて寝ている姿を見ると、猛烈な後悔の念に襲われた。まだまだ起きそうにないその姿を見て、水を買いに行くついでに、このまま帰ろうとバッグを掴む。
自分は絶対しないと思っていた、いわゆるワンナイト・ラブをやってしまった現実を、簡単には受け入れられなかった。
足の踏み場を確認しながら、つま先だけで部屋の中を移動し、キッチンへ続く白いドアを開ける。1度だけ振り返ったが、彼は起きる気配はない。
そのまま音をたてないよう靴を履いて鍵を開け、部屋の外に出る。鍵を掛けないままにしておくのは申し訳ないとは思いながら、そのままエレベーターに乗った。
昨夜の記憶は2次会の乾杯以降、ぷつりと途切れていた。エレベーターの鏡に映る自分の姿は、化粧が落ちて目の周りはうっすら黒くなり、肩まである髪はパサついている。マンションを出ると日比谷線・八丁堀駅の文字が見えたが、こんな姿のまま電車に乗る気にはなれず、捕まえたタクシーのシートにどっぷりと深く沈み込んだ。
飲み会に誘ってきた友里子は翌日も仕事だったため、1次会で帰っていた。電話で「あの後大丈夫だった?」と聞いてくる彼女には、幻滅されそうで全てを打ち明けることができず、この件があってからはそのまま疎遠になってしまった。
陽介からはmixiのメッセージで「また会いたい」と何度か連絡が来たが、返事は1度も返していない。
初めての経験に香織の心はしばらくざらついた。
「東京でしかできない恋愛と結婚」を求めていた香織にとって、八丁堀の1Kに住む陽介は、恋人候補にはならなかったのだ。
まだ東京に、『シャングリ・ラ ホテル』もスカイツリーもなかった頃の話だ。
日比谷線の女
過去に付き合ったり、関係を持った男たちは、なぜか皆、日比谷線沿線に住んでいた。
そんな、日比谷線の男たちと浮世を流してきた、長澤香織(33歳)。通称・“日比谷線の女”が、結婚を前に、日比谷線の男たちとの日々、そしてその街を慈しみを込めて振り返る。
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