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太一と愛子は外苑前のCIBONEで買ったソファに並んで寛いでいる。明日からの仕事始めに向けて、三が日最終日は家で過ごすのが2人の恒例なのだ。
2人でワインを1本空けた後、愛子はデザート代わりに貴腐ワインを飲み始めた。
太一は葵の妊娠疑惑が年をまたがず解決したことに安堵したが、対照的に愛子は寛のことが喉に刺さった魚の骨のように、ずっと気になっている。
愛子にとって、携帯番号が書き添えられたこの名刺は、何でもない同窓会への招待状か、はたまた秘密のリゾートへのインビテーションカードか…。どちらとも判断がつかず、思いは日ごとに移ろっている。
異性と2人で食事に行くことには抵抗のない2人だが、相手が「昔の恋人」となれば話しは違う。このことを2人で話し合ったことはないが、愛子にはそれは「ありえない」という認識でいる。
だが、「久しぶりに話してみたい、幸せに日々を過ごしているのか知りたい」という気持ちが、山にかかる霧のように、愛子の心に出たり消えたりを繰り返しながら漂っている。
「やばい、水買うの忘れてたー」
そろそろ寝ようかという時、太一がいきなり大きな声を出した。
「そうなんだ。じゃあ私のコントレックス飲みなよ」
冷蔵庫の横のストックを指差し愛子が言う。
「それ、硬度が高くて苦手なんだよ…。いいや、どうせ朝も飲むから、ちょっとコンビニに行ってくる」
太一はそう言って勢いよくソファから立ち上がり、ダウンを羽織った。スウェットのまま玄関へ行く太一に「先に寝てるかも」と愛子は告げる。
太一は踵を返して愛子の前に来ると
「うん、明日からに備えて先に寝てて。ちゃんと暖かくしてな。」
言いながら太一は愛子の頭に軽く手を触れ、ハグをする。
「今日も愛子の良い匂いがする」
ハグをした時、ちょうど鼻先に来る愛子の髪の匂いを嗅ぐ太一。愛子の匂いを数秒堪能した後、「行ってくるね」と太一はあらためて玄関へ向かった。
バタリとドアを閉める音が聞こえて部屋には静寂が訪れた。
太一の愛情を感じ、寛の名刺を捨てるべきか逡巡したことを後悔する愛子。
—ごめんね、太一。あんな名刺、迷うことじゃなかったね—
心の中で謝って、なんだかすっきりした気分で立ち上がる。同時に、毎朝飲む豆乳が残り僅かだったことを思い出し、急いでLINEを開き太一にメッセージを送る。
「ごめん、豆乳も買ってきて!」
直後、部屋の中で「ブブー」という音がした。音の方を見ると、キッチンカウンターの端に太一のiPhoneがあった。
—珍しい、忘れて行ったんだ。あぁ明日は豆乳なしか…—
そう思いながら、違和感という薄い膜に愛子は覆われた。違和感の正体を確かめるため、愛子はもう一度自分のiPhoneから太一へLINEでメッセージを送る。
「忘れて行ったんだね。豆乳は気にしないで。おやすみ!」
太一のiPhoneはまた「ブブー」と震えるだけで画面は真っ黒のままだった。
愛子は自分の送ったメッセージが、表示されないことに首を傾げる。
喉に刺さった骨のような違和感は、まだ続いていた。
東京DINKS
国内で360万世帯いるといわれる、意識的に子どもを作らない共働きの夫婦、DINKS(=Double Income No Kids)。東京のDINKSの生態を描いていきます。
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