仕事も公募も中途半端なまま迎えた、翌日金曜の19時。
会社を出て向かったのは、実家…というか生前父の家だった阿佐ヶ谷のマンションだ。
父が亡くなったあとも手放すことができず、今は時々風を通しに来ながら、トランクルームのように使っている。
いとこの美緒と待ち合わせて、駅近くのビストロで夕食を取ってから、歩いてマンションへと移動する。
玄関を開けると、木と機械油が混ざったような、もうどこにもないはずの父の匂いがした。
「ありがとね、真理恵。わがまま聞いてくれて」
「いいのいいの。私の振袖、多分ここのどこかにしまってあるはずだから」
友人の結婚式で着物を着ることになった美緒に、振袖を貸すために訪れたのだ。
だけど――滅多に開けることのない、父の寝室だった部屋を捜索していたその時。
ため息とも悲鳴ともつかない奇妙な叫び声を、美緒がふいに上げた。
「ねえ、ちょっと真理恵!」
「なにー?振袖、あった?」
「これさ。おじさんのノートじゃない?このカクカクした字、めちゃくちゃ懐かしいんだけど」
美緒の前にある段ボール箱を、一緒に覗き込む。
中に入っているのは、たくさんのキャンパスノートだ。父は私とはまた別の家電メーカーの技術者で、新しい製品のアイデアを何冊ものノートに書き残していた。
「わあ…」
言いかけて、息を止める。箱の隅に、見覚えのある黒い革の手帳があった。
― うそ。よりによって、こんなタイミングで。
導かれるように手帳を手に取り、ページを開く。探さなくても、どのあたりに“それ”があるのかはすぐに分かった。
土曜日の欄。
父の四角い字で書き足された予定。
“真理恵 吹奏楽・都大会”。
その上で消されている文字を、感触を確かめるように指でなぞる。
“健康診断・再検査”。
何度もフラッシュバックしたその文字は、記憶の中のものと寸分違わない。
中学二年の秋。
当時の私は吹奏楽部に所属して、クラリネットを吹いていた。一生懸命打ち込んでいた部活だったから、初めて勝ち進んだ都大会には、どうしても父に来てほしかった。
物心ついた頃から、家族は父と私の二人だけだった。母がなぜ家を出たのか、父は理由を言わなかったし、私も聞かなかった。仕事も家事も一人でこなす父に、これ以上何かを求めるのはいけない気がしていた。
それでもあの日だけは――「用事が入ってる」と言う父に、我慢できなかったのだ。
「みんな親が来るんだよ。こんな時くらい、お父さんも来てよ」
不貞腐れながら訴える私の前で、手帳を開いた父の姿は、今もはっきりと思い出せる。
“健康診断・再検査”に、二本の線を引く。
“真理恵 吹奏楽・都大会”と、その下に書き足す。
かさかさと乾燥して節くれだった、無骨な父の指先。
「え…用事って、健康診断なの?」
「うん。でもいいよ。せっかくここまで勝ち上がったんだし、応援は行かなきゃだよな」
「どこか悪いの?」
「大丈夫。検査はまた今度にするから。真理恵の方が大事だ」
父は本当に会場へ来た。
客席の一番後ろで、不器用に大きな拍手をしてくれていた。演奏が終わったときには、スタンディングオベーションまでする始末だった。
「真理恵のお父さん、目立ちすぎ」
そう友達に笑われて私は、鬱陶しがるふりをしながら何度も客席を振り返った。
だけどあの日。私は、すごく、すごく、うれしかった。
だから数年後。父のがんが手遅れだと知った時は、あの日に喜んでしまった分だけ、すごく、すごく、苦しかった。
多忙だった父は、延期した健診をさらに先へ延ばしていた。病気が分かった時には、簡単な治療で済む段階ではなかった。
もちろん、あの日に再検査を優先していたら何かが変わったのかなんて誰にも分からない。
医師にも、私のせいではないと言われた。
それでも父を亡くしてから、私の中にはひとつの決まりができたのだ。
― 大切な人の時間を、自分のために奪ってはいけない。
会いたいなんて、言わない。
予定を変えてほしいだなんて、頼まない。
寂しくても、そんなくだらない気持ちには蓋をして、大丈夫だと微笑む。
そうすれば、もう二度と誰かの大事な時間を奪わずにすむから――だから私は、誰かの優しさに甘える前に、自分の望みを消すようになった。
「真理恵。もしかしてまだ、自分のせいだと思ってる?」
美緒が静かに聞く。
「理屈では違うって分かってるよ」
「理屈以外ではどうなのよ」
最近の私は、答えられないこと続きだ。美緒は、黙りこくる私の手から手帳を受け取り、そっとページを閉じて言った。
「おじさんだったら絶対言うよ。真理恵が我慢してる姿なんて見たくない、って。仕事でも、恋愛でもさ」
胸の奥に押し込めていた濁った感情が、また首をもたげる。
「我慢なんてしてないよ。私、亮さんのこと一週間も無視してるもん」
「我慢してるでしょ、やり方が絶望的に違うけど」
「絶望的にって…」
「亮さんには謝りなよ。そのあと、怒ればいいじゃん」
「その順番は、合ってるの?」
「知らない。でも、どっちも本音でしょ」
美緒と話したあと私は、振袖を捜索し続ける美緒を部屋に残して外に出ると、手帳を抱えたまま亮さんへ電話をかけた。
スマホの向こうで、呼び出し音が鳴り続ける。
十回以上鳴ったところで、電話を切った。
― 1週間も無視し続けた。電話に出てもらえないなんて、当たり前だ。






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