動けないもどかしさのようなものを平静の中に滲ませた崇との電話を切ると、大輝は部屋へ戻った。寝室のふすまをほんの少しだけ開けて覗いた静かな寝顔に、今、幸せかと呟いた涙目が重なった。
― あれは、俺に?
まどろみ混じる意識の中で、他の人に向けられた言葉なのかもしれない。答えのない疑問を浮かべながら大輝はふすまを静かに閉めて、キョウコは多くを語らない恋人だったと改めて思い出す。
― 別れたときもそうだったな。
「守りたいものの優先順位が変わっただけ」
大輝が告げられた別れの理由は、たったそれだけ。それ以外は何も語らず、何度追いすがっても、ただ頑なに拒まれ突き放された。
けれど突き放される度に…キョウコの方が苦しそうで。いつしか大輝は諦めることを選び――自暴自棄に荒れた。そしてともみに慰められたのだ。
結局、彼女が“守りたかったもの”は分からないまま。
キョウコは今も門倉の性を名乗っているし、崇も彼女のことを妻と呼ぶ。2人の関係は修復されたのか、もう詮索する権利も理由も大輝にはないはずなのだが。
― ストレス…か。
その原因は自分にもあるのかもしれないと、医師の診断は今更ながら大輝を申し訳ない気持ちにさせた。
世界的な映像監督の門倉崇と大輝が最も尊敬する脚本家の門倉キョウコ。この2人と共に全世界に配信される大型ドラマを作りませんか――という、抗いがたいオファーを大輝が受けたのは、キョウコと別れてから1年ほどが経った頃だった。
「友坂くんがいいなら、私は一緒にやりたい。友坂くんとなら良い作品が書けるはずだから」
凛と微笑んだキョウコの言葉にホッとし、夫婦と、その妻の元恋人という3人での映画作りが始まった。夫と元恋人に挟まれて仕事をすることなど本来なら歪でしかない。けれどキョウコも、そして大輝も歪な状況に作家としての欲を燃やしてしまった。
2人ならどこまで書けるのか。
かつて愛した相手と恋の台詞を交わす。虚構の中にリアルが混じり合い、2人だから――恋人同士だったからこそ描ける世界へと広がっていくのではと期待したし、実際に期待以上に大輝に力を与え、きっと1人では創れなかった物語を書けているという驚きと興奮があった。
キョウコは脚本では途端に雄弁になり、喜怒哀楽も激しい。恋人だった頃には知らかった顔に驚かされ、ケンカもして大輝はこれが同志というものかと嬉しくもなった。
― けど、歪は歪だから…キョウコさんには申し訳ない。
しかも、この歪な三角形における負荷が大きいのは、大輝ではなくキョウコなのだ。魔女めいた医師に言われた通り、もしもキョウコが話してくれるなら…目覚めたら聞いてみよう、と大輝は1人PCを起動し脚本の続きを書き始めた。
◆
新たな撮影場所の候補を全て確認し終えたのは24時過ぎで、大輝の電話からすでに3時間ほどが経過していた。移動車両には崇とプロデューサーの宮本。そして助監督とロケセットを作る美術スタッフ2名が乗っていた。
「キョウコさん、大丈夫ですかね…」
真っ暗闇な林の細道を走るバンの中で、プロデューサーの宮本がおずおずと崇に聞いた。さきほどから崇は、何度も携帯を見ている。崇がキョウコのことをどれだけ大切にしているかは、業界中の誰もが知っている。側にいられない自分が歯がゆいのだろうと、宮本は申し訳なくなった。
「今から車で戻れたりしないよね?」
崇に聞かれ、宮本はさらに眉を下げる。
「すみません、この時間から監督を向こうの宿に送るのは難しいです。明日の朝も早いですから…」
撮影クルーのドライバーには最低でも6時間の睡眠をとらせなければならない。今向かっているキャンプ場に併設された宿を明日の朝7時には出発することが決まっているため、これ以上の運転はさせられないのだと宮本は続けて説明した。
「じゃ、タクシーは…」
「東京とは違いますし…もうこの時間だと呼べません」
「だよね」
崇は切り替えたように笑った。
「申し訳ないです。そのかわり友坂先生が側についてくださってますので」
「…大輝が?」
「はい、どうせ徹夜だからって、ちょくちょくのぞいてくださってるみたいで」
「これ」と、宮本が自分の携帯の画面を崇に見せた。1時間前に大輝から、『まだ眠られていますが、顔色がだいぶ戻ってきた気がします』とLINEが来ていた。
「キョウコは…どこで寝てるの?」
「離れです。あそこは寝室もあるのでそこでお休みになっているそうです。友坂先生が隣の部屋で作業されているっていうことなんで、安心ですよね」
「…」
「監督?」
「あ、いや、大輝にお世話させちゃって申し訳ないね。オレからもお礼のLINEしとく」
ありがとうございます、と宮本が何に対するものなのか謎の礼と共に頭を下げたと同時に、ガタンと大きく車が揺れた。
「宿まであと30分くらいですが、この先の山道はさらに真っ暗になりそうなんで消させてもらいますね」
運転手が車内のライトを全て消すと、それが合図になったかのように皆が沈黙し、そのうちに宮本のいびきが聞こえ始めた。木々さえ影でしか見えず黒の濃淡に囲まれた山道はよく運転ができるなと思うほど、確かに暗い。
『キョウコの様子はどうかな?ずっとついててくれてるんだって?お手数かけて申し訳ない。昔から根詰めると貧血にはなりがちだから、そんなに心配し過ぎることもないとは思うんだけど…』
大輝に送ったLINEが、いつまでも既読にならない。闇の中では携帯の青い光が眩し過ぎて、崇は光量を下げながら苛立ち始める。
執筆部屋を用意したのは崇だ。けれどこんなはずではなかった。自分があの2人をコントロールするための舞台装置だったはずなのに、なぜ今その部屋で弱ったキョウコの側にいるのが自分ではなく大輝なのか。
執筆中に倒れた細い体が大輝に抱かれてベッドに運ばれていく。その光景がまるで見たように脳裏に浮かび、胸が焦げ、どす黒い熱が喉にせり上がる。その熱のままに、崇はもう一度大輝にメッセージを送った。





この記事へのコメント
ともみめっちゃ強く出て気持ちいい展開。
大輝は弱っているキョウコに冷静に淡々と。崇はオロオロ。
ともみも大輝も強すぎる、夫妻はどちらもボロボロだなあ。
ストレスなんて誰にでもあるけど、老婆の魔女の予言通りキョウコを放っておいてはいけなさそう。
大輝は単に仕事に集中してるだけだろうと思うしキョウコが万が一誘惑しても今更動じないよ!監督の罠かも知れないし…