小上がりの前に脱がれた館内用のスリッパが1つ。ふすまを開けると20畳はありそうな畳の部屋の広机に資料を広げ、パソコンに向かうキョウコが顔を上げてイヤフォンをとった。
「お疲れさま。そっちの机を使ってくれる?お茶とかコーヒーも、ポットで用意してくれてるから、ご自由に」
無造作に髪をまとめた浴衣姿。手短にそれぞれの場所を説明したキョウコはまたすぐにパソコンの画面に視線を戻した。
― 揉めてるんだから、気まずくなるかと思ったけど。
おそらくゾーンに入っているのだろう。見事なほどに大輝に感心がないキョウコに、大輝はフッと苦笑いをもらした。
実は東京で、「キョウコ先生がこんなに強く主張されるなんて、はじめて見ました」とプロデューサーの宮本が驚くほど、キョウコと大輝は激論を交わした。海外生活が長く、自分の意見を伝えることに慣れている大輝と違い、口下手で口数も少ないキョウコが言葉を尽して訴える様は、確かに大輝にとっても新鮮だった。
大輝はキョウコの後ろに置かれたもう一つの広机に、パソコンと資料を置くとキョウコに背を向けて座ると、作業を始める前に声をかけた。
「お互いにきりのいい所まで書きあげたら、打ち合わせします?2時間後くらいでいいですか?」
今は20時前。日付が変わる前に確認しておきませんかという提案に、キョウコは「そうね、じゃあ2時間後に」と背中を向けたまま答えた。大輝は携帯のアラームを22時にセットし、自分もパソコンを立ち上げる。
キョウコがテンポよくキーボードを叩いていく音が心地よくて、イヤフォンをはめるのをやめた。1つの物語を2人で仕上げていくこの共同作業で、大輝は恋人だった頃には見せてもらえなかったキョウコの激しい熱を知り、それは今や、深い尊敬へと変わっている。
欲しいものを欲しいとは素直に言ってくれない人だった。だから大輝はもどかしく、随分と寂しくもなった。そんな過去に、ほんの一瞬だけ意識を奪われつつも、背中に感じる同志としての熱に励まされながら、大輝は執筆に没頭していった。
◆
ブブブっと小さなアラームが震え、2時間が経ったことに気づく。大輝は大きく伸びをしながら、キョウコに声をかけた。
「2時間経ちましたけど、打ち合わせできます?」
返事はない。イヤフォンのせいで聞こえないのだろうかと、振り返るとキョウコのキーボードを打つ手が止まっている。そしてその体がぐらりと揺れた。
「キョウコさん!?」
反射的に立ち上がり、キョウコを受け止めた。その顔は青ざめ、思わず触れた頬は冷たく唇が震えている。とっさに近くにあったブランケットを掴むと、大輝はキョウコの体を包んだ。
「寒い?お医者さん呼びます?」
反応がない。大輝は慌て、崇、そして宮本に電話を入れたが2人とも出ない。ならばフロントに、と動こうとしたときキョウコの瞼が力なく動き、大輝を見上げた。
「…大輝、くん?」
別れて以来、友坂くんと呼ばれていたのに。驚いた大輝に腕の中のキョウコが微笑んだ。
「…もう少しだけ、このままで」
「キョウコさん…?」
「…分かってるから。もう少しだけこうしてて?」
キョウコの手が震えながら伸び、ギュッと大輝の胸、スウェットを握った。そして瞼が再び閉じられ…大輝はキョウコを抱きかかえたまま、茫然と動くことができなかった。
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この記事へのコメント
大分のご飯が美味しそうだった。
小説の中の、別のストーリー面白い。