すっ、と紗和子の表情に影が差すのが、確かに見えた気がした。
「光江さんが毒、っていうのセイジンクンシじゃないのは知ってるよねぇ。あなたは反社ですか?ってくらい超怖いときもあるもん。ねえ、ともみさん」
ルビーがその影を吹き飛ばすかのように明るく笑う。
ともみは、ルビーが“聖人君子”の意味を理解し、正しく使っているようだと驚きながら(失礼)、紗和子の“ババア”という発音は、相変わらず不快に響かないことを不思議に感じて聞いた。
「なぜ、光江さんをババアと?」
「気になりますか?」
「紗和子さんの“ババア”からは、侮蔑も憎しみも感じられないですし、私たちの前だから、わざとおっしゃっているのかなと思ったり…」
鋭いですね、と紗和子の口元が緩んだ。
「私は、光江さん自身にそう呼ぶことを許された唯一の女、らしいです。理由は、光江さんに聞いてください」
質問を煙に巻かれることに慣れたともみは苦笑いで、それでももう一つだけ、と口にした。
「なぜ信じすぎてはいけませんか?光江さんに――裏切られた経験が?」
「裏切り…とあの“ババア”は思っていないかもしれませんが、少なくとも私はそう感じています。でもあくまでも私の主観ですから。これも聞いてみてください。彼女がどう思っているのか、私も興味深い」
話のきっかけを落としては、答えを光江に求めるように薦める、その狙いへの疑問を抱きながら、ともみは2杯目のマッカランを差し出した。すると、タイムリミットだと言わんばかりに、「余計なことを話し過ぎました」と紗和子は、自分の復讐計画に話を戻した。
◆
「麻莉奈は、今流行りの“あざとい女子”などとは全く違って、何の計算もありません。ただ無邪気に、心から、あなたが好きだ、愛していると伝え続けるんです。最初に、恋に落ちちゃった、と私の元婚約者に伝えたのは、私も一緒にいた時だったんですよ。まるでその瞬間に閃いたみたいでした」
「子どもじゃん」と呆れたルビーに「だから最初は本気にしていませんでした」と頷いた。
「元婚約者はとても穏やかな人で、麻莉奈は私よりも彼女といることを好んでずいぶん懐いていたので、異国で暮らす寂しさから家族的愛情を恋だと錯覚していると、私たち大人は受け止めました。年も20歳以上離れているのだし…と、元婚約者も最初は相手にせず、優しくいなして諭しているように見えました。
その時すぐに、離れて暮らすことを選んでいたら…と思うこともありますが、なにせ麻莉奈には生活能力が全くありませんから、放りだすことはできなかったんです」
まるで他人事のような低温で、紗和子は、元婚約者についても淡々と説明した。
紗和子の元婚約者の名は、遠山奏(とうやまかなで)。両親はともに日本人だが、アメリカで生まれ育った女性で、ボーイッシュな長身の美形。ロンドンの美術館でキュレーターとして働いている時に、紗和子に出会った。そして付き合い始めて2年後に奏からプロポーズされたという。
「プロポーズを受けたのは、麻莉奈と私が出会う直前のことでした。日本では同性婚ができませんから、結婚後はニューヨークで暮らすと決めました。だから婚約期間の間に、私は自分のギャラリーを人に任せる準備を整えるつもりで。
奏は婚約期間中も私と離れていたくないと、ニューヨークでの仕事を休むという形で来日して一緒に暮らし始めたんです。その数か月後に、麻莉奈も住ませることになるんですけどね」
その後、紗和子は麻莉奈を売り出すことに夢中になり、ギャラリーを人に委ねる準備は予定より大幅に遅れた。それほど麻莉奈の才能に入れ込んでいた。
「人生に、もしも、はない。あの時こうしておけば良かったと振り返ることだけは絶対にしない。そう決めて生きてきたんです。でも」
もしもあの時、自分が麻莉奈を見つけなければ。もしも日本で同居しなければ。もしも、を繰り返し悔やんだのは、人生で初めてだったと紗和子は続けた。
「麻莉奈が奏に気持ちを伝えたのは、3人での同居を始めて1年半ほどが過ぎた…春のことでした。桜の季節だったからよく覚えています。でも奏がきっぱりと断り、もし本気の好意なら一緒に暮らせないと伝えると、麻莉奈は落ち着きました。少なくともその時は」
そして3人の生活は元に戻ったかのように見えた。それがある日、と紗和子は視線をともみに上げた。
「金沢のギャラリーのパーティに呼ばれたんです。でもその前日、麻莉奈が高熱で倒れて入院することになって。麻莉奈は病院が苦手で…放っておくわけにはいかず。2人で一緒に出席するはずが、その時は奏が残って世話をすることになりました」
その出張は3泊。その間に、2人に何があったのかは未だに分からないけれど、と紗和子が持ち上げたグラスの反射が、カウンターにきらりと落ちた。
「その出張から帰って1週間が経った頃、深夜に喚き散らす麻莉奈の声で目を覚ましました。隣で眠るはずの奏もいない。きっと創作中に爆発した麻莉奈を奏がなだめに行ったのだろうと、アトリエに向かいました」
そしてドアを開けた紗和子が見たものは…押し倒された奏とその胸にしがみつく麻莉奈。紗和子に気づいた麻莉奈は、ぐしゃぐしゃの、子どものような泣き顔で言ったという。
『やっぱり私は奏さんが好き。本当に愛してるの。ねえお願い紗和子さん、私に奏さんをちょうだい。そしたらもっともっといい作品が作れて、紗和子さんのこともハッピーにできるよ。ね、お願いだから…!』







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