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今夜、罪の味を Vol.14

バレンタインデーが憂鬱。渡したい人もいない、30歳独身女の本音

有栖川匠

平日の23時を過ぎた表参道は、すっかり人もまばらだ。

バレンタインと一緒に、東京らしい温暖化した冬も過ぎ去ってしまったとしか思えない。人けのない骨董通りには冷たい風が吹きすさび、私は思わずコートの襟を掻き寄せた。

「さむ〜…」

寒くて寂しい深夜の帰り道は、否が応でもあの夜を思い出させる。

会社の懇親会で韓国鍋を囲んだ後、ハリーの元へと駆け出した3週間前のあの夜もちょうど、こんなふうに骨まで凍ってしまいそうな寒さを感じていたから。




「家行ってみたら?俺タクシー奢るよ」

向井さんにそう言われるがままに、飛び乗ったタクシーで私が向かったのは、ハリーの部屋がある渋谷だ

井の頭通りから少し奥に入った宇田川の古いマンションには、一回だけ訪れたことがあった。ルームメイトを紹介したいと言われて、ホームパーティーに呼んでもらったのだ。

いつもいろんな友達が出入りしていて自由な雰囲気だという部屋は、たしかに言葉通りのようでオートロックもない。奇妙な焦りと高揚感に浮かされた私はマンションにつくなりエントランスを抜けて、ハリーの部屋のドアチャイムを鳴らした。

「ハイ〜」

開けられたドアの隙間から、男性が答えた。だけどその声は、ハリーの声よりも少し高くてアクセントが違う。

「アー、フタバさん!オヒサシブリ」

大きく開かれたドアからにょっきりと姿を現したのは、ハリーのルームメイトのインド人・クマちゃんこと、クマールだ。

「クマちゃん。覚えててくれたんだ、嬉しい。遅くに突然ごめんね」

この部屋でクマちゃんの手作りのインド料理を、ハリーと一緒にご馳走になった日が、ものすごく遠い昔のことのように感じた。

だけど今は、そんなノスタルジックな回想も焦りをとどめることはできず、私は前のめりにクマちゃんに問いかけるのだった。

「突然来ちゃってごめんなさい。ねえクマちゃん、あの…。ハリーって、もう韓国に行っちゃったのかな」

― お願い。どうか、部屋の奥にいて…!

心の中でそう祈りながら、クマちゃんが「ハリー、イマス」と答えてくれるのを期待する。

クマちゃんは日本でのお仕事もほとんど英語しか使わないらしく、ハリーと比べると日本語はあまりおぼつかないのだ。スローペースな会話に焦れながらも、私は声に出さない祈りを続けた。

だけど…。

クマちゃんからの返事は、やっぱり期待したようにはいかなかった。一生懸命日本語を絞り出すように答えてくれた言葉は、私の祈りを打ち砕いた。

「アア、カンコク…KOREA。ハイ、ハリー、行きました、シゴト。えーと、センシュウ」

「そっか…そうだよね。うん」

本当は、分かっていた。今夜こうして突然ハリーのもとを訪れたのも、そもそもがダメ元だったのだ。

納得しようとするものの、どうしても足掻くことがやめられない。私は泣きたいような気持ちで、クマちゃんに最後の質問を投げかける。

「あのさ。ハリーって、また日本に帰って来るのかな…?」

でも…。

クマちゃんは、そんなで縋り付くような私の問いかけに、なんとも言えない下がり眉の表情で首を左右に振るだけだった。

それ以上食い下がる元気も、理由もなくなってしまった私には、深くお辞儀をしてその場を去ることしかできなかった。


悲しい回想に浸りながら歩いていたら、骨董通りもいつのまにか通り過ぎ、もう家は目と鼻の先になっていた。目の前の首都高下の暗い六本木通りを、タクシーばかりがビュンビュンと通り過ぎていく。

クマちゃんと話したあのあとも、渋谷からこの道を歩いて帰った。少しでも孤独を薄めてしまいたくて、コンビニで缶ビールを2本買った。たった今、私が買ったのと同じ銘柄の缶ビールだ。

同じような夜の暗さ、空気の冷たさに、まるでデジャブのような感覚に襲われる。けれどそれは、あくまでも錯覚なのだ。

時間は容赦なく過ぎていく。

ハリーはもう行ってしまったし、もう戻って来ることもない。

私の心だけが置き去りだった。気がつくのがあまりにも遅過ぎたから。

いつだってなぜだか、私の恋はこうなってしまう。

「…ハリー」

心底、自分で自分が嫌になる。気がつけば私は涙をこぼす代わりに、ハリーの名前をこぼしていた。

でも──弱気な声が漏れ出たその瞬間。どこかから、耳に馴染んだ声が聞こえたのだ。

「はい、双葉さん」

目前の自宅エントランスの前で、影が動く。生垣に腰掛けていた丸い背中が、ぐんと立ち上がる。

「!?」

驚きのあまりさきほどコンビニで買ったばかりの缶ビールの袋が手から滑り落ちたけれど、そんなことはどうでもよかった。

「ハ、ハリー?」

暗い夜の中で、ハリーが優しく微笑んでいる。それは、どれだけビールを飲んで酔っ払っても見ることができなかった、夢を見ているみたいな光景だったから。

この記事へのコメント

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No Name
うーん、スマホの無い時代だったら感動したかもしれない。でもハリーがいい人過ぎて可愛いからOKかな。
2026/02/16 06:289Comment Icon1
No Name
市子と豪は同級生だから現在26歳
早紀と双葉は同期入社の現在28歳
栞ちゃんは現在23歳
ですよね?

バレンタインに渡したい人もいない30歳独身女って誰??
2026/02/16 06:359
No Name
あの日ハリーは好きな人がいる双葉を諦めようとして韓国に移住するようなニュアンスで伝えた、もう会うの止めるつもりで?!
どうもモヤっとするハッピーエンド。ロスでラーメン屋やる豪も短期で帰ってくる可能性あるな😆
2026/02/16 06:458
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