実は、このホテルには――恋人になって初めてのクリスマス、キョウコの誕生日。酔っぱらい過ぎたお互いの言動を笑いながら、ただ泊まることになった夜のことも。キョウコと大輝の思い出が詰まっている。
だから宮本からこのホテルを指定された時、キョウコは驚き、場所を変えてもらおうかと思ったけれど、不自然ではない理由を作ることができずに諦めた。
このエグゼクティブスイートにも宿泊したことがある。寝起きの姿を大輝に晒すのはいつぶりだろうと考えてしまったことが少し恥ずかしくなって、キョウコは足早にバスルームに向かった。
― まあまあ、酷い顔になってる。
バスルームの鏡に映る自分に苦笑いが漏れた。執筆作業に化粧は邪魔だと、乳液タイプの下地と、眉毛を少し整えただけの40歳の女の顔。目の下の隈が目立つし、朝より随分老け込んだように見える。
けれど、それはこの数日寝食を忘れて物語を作っていたのだという、いわば勲章であり、いい作品が作れるのなら外見などどうでもいいのだ。それよりも早く大輝の第三稿を読みたくて、キョウコは冷たい水で手早く顔を洗うと、ニットの裾を整えてバスルームを出た。
「三稿はメールしてます。あと白湯、置いときました」
大輝の笑みに、ありがとうと返してキョウコも自分のパソコンの前に戻る。
このスイートの窓際には、長期宿泊するビジネスマンが仕事に使うにも十分な大きさの、ライティングデスクが置かれている。最も執筆がしやすいその場所をキョウコに譲った大輝は、部屋の中央にある円形のソファーテーブルに資料を広げ、長い足を持て余しながら、カーペットの上に座りこみ、ノートPCを叩いている。
キョウコはヘアバンドをはめ、ふぅ、と小さく気合の息を吐くと、ノートPCを立ち上げ大輝からのメールを開いた。
『第三稿でやっと、オレが伝えたかったことが書けた気がしてます。キョウコ先生の表現にインスパイアされたアイデアを盛り込んだら、グッとメリハリが出たんで、今度こそ合格点がもらえるはず!』
メールの本文に書かれた大輝の気合に、思わず笑みがこぼれ、キョウコは期待値を上げて、第三稿のファイルを開いた。この合宿までも何度もアイデアを出し合ってきた。驚いたのは、キョウコの望むことを叶えるのが自分の幸せだと、かつては常にキョウコの思いを優先していた大輝が、意見を譲らないということが度々起こったことだ。
2人が対立してまとまらず、プロデューサーの宮本が間に入ったことも1度や2度じゃない。「友坂くんって意外に子どもっぽいんだね」と尖ったキョウコを、大輝が「その言葉、そのままお返ししたいです」と跳ね返し、宮本に「お2人って、似た者同士だったんですね」と、随分笑われた。
— 恋が終わった後の方が、本音が言い合えるようになるなんて。
皮肉なものだと思いながら、キョウコは画面に並べられた、大輝が生み出した新しい文字列を追っていく。文字の上でお互いの思考回路が繋がっていく感覚に、喉の奥がヒリつくような高揚を覚える。ともみがどれだけ大輝に愛されたとしても、この感覚の入り口にさえたどり着くことはできないはずだ。
― これくらいは、許して欲しい。
キョウコは優越感に似た熱を胸に宿しながら、大輝の言葉を指でなぞった。






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