私小説みたいな書き方は脚本家としては正しくないのかもしれませんけどね、と苦笑いになりながらも迷いのない大輝の表情に、キョウコの全身を、やるせなさ、虚しさ、悔しさ、一言でまとめることはできない感情が駆け巡り、脱力させていく。
大輝はもう完全に自分との恋を終わらせ、未来へと歩き始めている。それを隣で支えている女性もいる。かつて自分にだけ向けられていた大輝の惜しみない愛情を受けているのであろう、ともみの真っすぐな瞳を思い出すと、キョウコの胸がジリっと小さく焦げた。
「わかった。じゃあ私も覚悟を決めるわ。お互いに…こみ上げるままに、本気で書き合いましょう」
キョウコの承諾に、大輝の顔がパアっと晴れてゆく。そして、ありがとうございます、と頭を下げると、ホッとしたかのように、サンドイッチを口に運び始めた。大きな口にほおり込んでいく様子は豪快で荒々しいというのに、その所作は相変わらず美しくて。キョウコが密かに見とれているうちに、あっという間に食べ終えた大輝が、コーヒーを口にしたあとで言った。
「実はこの前のパーティーの時、門倉監督に話しかけられました。直接会ったのは初めてだったんですけど」
夫である門倉崇と別居を続けているキョウコには初耳だった。元恋人と夫が対面していた。それは心穏やかな話ではないはずなのに、不思議とキョウコに焦りは起こらなかった。
「夫は…なんて?」
「今思えば、今回の仕事の前振りみたいなことだったのかなとも思うんですけど。今度、一緒に仕事ができるかもしれない、そんな話が出ているってことを言われて」
確かにさっき、プロデューサーの宮本も、「門倉監督には既に話をしている」とは言ってはいたけれど。
「それだけ?」
「話は当たり障りのない感じで終わりましたけど、監督はオレとキョウコさんのことをご存じなんだと思います。関係が終わったことも含めて」
「そう…」
「大丈夫ですか?」
心配そうに眉根を寄せた大輝に、キョウコは穏やかな微笑みを返す。
「あなたが彼に攻撃されていないなら、私はなんともない。それだけがずっと、心配だったから。それに…私と門倉が、もうとっくに終わっているってことは、あなたも知っているでしょ?」
最近、キョウコは夫に何度目かの離婚を切り出した。そしてようやく…ほんの少しずつだけれど話が進み始めていることを大輝は知らないし、伝えるつもりもなかった。
「攻撃は全くされていませんけど、監督に、君の書いた愛の物語を撮ってみたい、と言われました。どういうつもりなのかわからないですけど」
夫の行動に、キョウコは呆れと共に苦笑いがこみ上げた。どのような方法でキョウコの想い人が大輝だと知ったのかはわからないが、普通なら、一緒に仕事をしようなどとは思わないだろう。けれど崇なら。
― 妻と妻の恋人と、離婚を迫られている自分。
その3人で一つの作品を作ることを、面白く思ってしまったのではないだろうか。門倉崇は、その人の良さとホワイトな環境の現場を作ることから、世の中からは聖人君子のような扱いを受けて慕われているが、クリエイターとしての本質は貪欲で、泥臭い闇を持つ男だとキョウコは知っている。
理性を打ち負かす欲望や、人の業を貪欲に表現するし、好奇心のままに動く。自分の感情――例えば妻の想い人への憎しみでさえも、“面白い作品”を作ることに利用してしまうだろう。
キョウコと大輝と崇の関係において、崇は俗にいう、“寝取られた夫”。嫉妬や怒りにまみれた自分が、どんな映像を撮ることができるのか、その興味を抑えることができなかったのだろう。
― 崇も…そして私も、業が強い。そして、きっと。
目の前の美しい男も。作品を作ることへの情熱が、自らの人生を食い物にしようとしていても、寧ろそこへ飛び込んでしまうのだ。自分でも気づかぬうちに…そんな同志になりつつある、大輝に聞いた。
「呼び方、変えないのね」
「呼び方?」
「ずっと、キョウコさんって呼んでくれてるから。仕事仲間として会うのだから、先生と呼ばれると思ってた」
大輝はハッとしたような顔になった。
「ごめんなさい、無意識でした。オレにとって、キョウコさんはキョウコさんで、今更、門倉先生って呼びなおすのも…過去が否定されるみたいで寂しいんですけど…」
でも、変えた方が良ければ変えます、とまるで怒られた子どものようにこちらを伺う大輝が可愛くて、キョウコは愛おしさがこみ上げた。
― いつか、この気持ちは消えていくものなのだろうか。
消えて欲しいような、消えて欲しくないような。説明のできない切なさをごまかすように、「そのままの呼び方で大丈夫」だと言ったキョウコに、大輝の顔が、ぱぁっと明るくなる。
大輝は、自分の恋はいつも報われないと言っていた。本気で好きになった人には必ずフラれてしまうと。キョウコは、今、その理由がわかってしまった気がした。
― みんな…怖くなっちゃうんじゃないかな。
こんなに無邪気に、晴れやかに笑う美しい男が、溢れる愛を、ただ一途に注いでくれることが夢のようで。その魅力に気後れし、不安になり、やがて疑いに変わったそれにがんじがらめになり――耐えきれなくなった女性たちが、手放してしまうのではないか。
― 愛され過ぎて、信じられなくなるってこともあるのかもしれない。
大輝の純粋過ぎる想いは、眩しすぎるのだ。それほどまでの無性の愛を、美と共に振りまく男の罪深さに…キョウコは寂しさと共に、小さく溜息をついた。
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この記事へのコメント
年齢いってからの失恋(自分から諦めたにしても)は回復が遅いとも言うし。