気が付けば私は、暗く、広い道路の横で、呆然と立ち尽くしていた。
豪くんの部屋を飛び出したあと、一体どこへ行ったらいいのか分からないまま、夜の街を歩き続けることしかできなかったのだと思う。
背後には大きな東京タワー。前方には高速道路の高架。ガソリンスタンドの灯りだけが煌々と光っているこの場所には、何の見覚えもなかった。
すぐそばを通り抜けていくタクシーの風で、朦朧としていた意識が急激に現実に引き戻される。
― え?私いま、豪くんと別れた…?
信じられなかった。
憧れの人であり、私の恋人。
そんな男の子を、たった今失ってしまったのだ。
もしかしたら、泣いて縋りつくべきだったのかもしれない。だけど、「豪くんに似合う女の子になること」を目指してきた私には、弱い自分を見せる方法が分からなかった。
さらには、こんなとき───死んでしまいたいほど悲しいときに一体どうすべきなのかも分からない。
だって、ダイエットや自分磨きに挫けそうになった時も、心のどこかで支えになっていたのは、豪くんの存在だったから。
― こういうとき、お酒が飲める人はヤケ酒をするんだろうな。
大きすぎる悲しみに襲われた時、人間にはどうやら人ごとのように受け止める機能が備わっているのかもしれない。
妙に冷静な頭でスマホの地図を確認すると、今私が立っている場所は東麻布の片隅だった。
土地勘もあまりないため、バーがある場所も分からないし、そもそも私はお酒が飲めない。
またしても途方に暮れてしまいそうになった、その時。ふと、視界の端に不思議な看板が入ってきた。
― 『relevé dessert』…。デザート?
読み違えていなければ、目の前の看板には確かにデザートと書いてある。
そしてさらには、21時50分という遅い時間にもかかわらず、ガラス張りの店内には灯りがともっているのだった。
「いらっしゃいませ」
「あの…1人なんですけど。こんな時間からでも大丈夫ですか?」
「はい、ラストオーダーは22時になります。どうぞ」
店員さんの優しい声に導かれるまま、カウンターの席に座る。下戸の私はあまり経験がないけれど、店内はオーセンティックなバーと言ってもおかしくないような落ち着いた雰囲気が漂っていた。
「えっと…」
半ば無意識のまま、灯りに引き寄せられるように入店してしまったのも、悲しみの底にいる人間の習性なのだろう。
それとももしかしたら、さっきのディナーで豪くんに言われた言葉が頭の片隅に残っていたからなのだろうか?
『たまにはデザートとか食べてみる?とか思っただけ…』
時刻は22時だ。とっくに20時を回ってしまった今、甘いデザートを食べるなんて罪は許されるわけもない。
だけど…。
― もう、豪くんはいない。痩せてなきゃいけない理由もないんだ。
豪くんに似合う女の子でいるために誘いを断ったのに、なんて皮肉なんだろう。
私には今、深夜のデザートを味わわない理由がひとつもなかった。
いわば、やけ酒ならぬ、やけデザートだ。
「あの…じゃあ、このアシェットデセールのチョコレートクレープっていうのをお願いします」
たどたどしい私の注文を受けて目の前で始まったのは、まるで魔法のようなひとときだった。
カウンター越しの清潔なキッチンから漂う甘い香り。優しい炎。繊細なナイフの動き。
アシェットデセールというのはフランス語で“お皿に盛り付けたデザート”という意味だと、優しげな女性シェフが教えてくれた。
「これ、何カロリーだろう?」
そんなつまらないことを一切考えずにお皿を迎えたのは、本当に久しぶりだったのだ。
そうして私の目の前に置かれたチョコレートのクレープは、私の知っているクレープとはまったく違ったものだった。
薄い生地にかかった、深みのあるチョコレートのソース。
そこに添えられたフレッシュなオレンジと、香ばしく燻製されたナッツ。
さらには温かなクレープと対をなす冷たいアイスクリームは、フルーティさも感じるコーヒーの酸味が爽やかで───。
夢中で食べ進めるうちに私は、とんでもないことに気がついてしまうのだった。
― 私…笑ってる。豪くんと別れたっていうのに、幸せを感じてる。
温かさと熱さが混在する甘さは、「罪の味」としか言いようがなかった。あまりにも、幸せすぎて。
豪くんがもういない悲しみは、簡単には受け止めることはできない。
だけど、ひとつのお皿の中に色々な温度が同居する深夜のアシェットデセールは、信じられないほど美しく優しい。
豪くんを失った悲しみを忘れるほどの甘美な喜びを「罪」と呼ばなければ、一体何が罪だというのだろう。
「──ごちそうさまでした。すごく、すごく…美味しかったです」
クレープをすっかり食べ終えてしまった私は、暖かな店内から真っ暗な外へと一歩踏み出す。
「こんな夜遅くなら、泣いても誰にも見られないよね」
すっかり緩んでしまった気持ちに、私は誰にともつかない言い訳をする。
秋の冷たい夜風が、濡れた頬の熱を奪った。
嗚咽が漏れ出る喉は、灼けるように熱い。
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豪との別れを受け入れた市子が、次に訪ねる「罪の味」は…?






この記事へのコメント
いやいや、側から見たらギスギスガリガリの骨皮筋だったと思うわ。夜8時以降一切食べないって…かなりつまらないよね。 1人の時にやる分には構わないけど。