2店舗目の立地について不動産業者からのメールを見ながら頭を悩ませる一方で、両手で生地のサンプルを確かめる。デスクの上には所狭しと、吸水性と速乾性に特化したウエアの生地サンプルが広げられていた。
― このホワイト、ちょっと白すぎてイメージと違うんだよね。それに、デザインももう少しどこか尖った感じが欲しい。やっぱり少し名のあるデザイナーに力を借りる?
考えれば考えるほど、わからなくなる。元外資コンサル勤務とはいえ自分の事業となると、客観的になれているかどうかの判断そのものが難しかった。
「うーん…だれか、冷静な意見をくれる人…」
口に出してみると、すぐに心当たりが浮かんだ。
「そうだ。確か正輝の会社の先輩で、アスレジャーアパレルブランド事業に関わってた人がいなかったっけ?」
もしかしたら、市場調査や事業戦略策定支援の経験を聞けたりするかもしれない。
いてもたってもいられなくなった私は、正輝に紹介を頼むため、たった今伏せたばかりのスマホを手に取る。
もしもその人との時間が取れなくても、正輝と少し話すだけでも視界が開けるのが常でもあるのだ。
だけど──。
「おっと、ダメダメ…」
正輝とのLINEトーク画面を開くなり、ハッとして指先を止めた。
そうだった。私と正輝は、以前のように頻繁に連絡をとることをやめたのだ。
だって私の存在は───正輝の幸せの、邪魔にしかならないのだから。
あの、4人で食事をした夏の夜。帰り道のタクシーの中で秀治に言われた。
「ねえ莉乃。こんなこと、いつまで続けるつもり?」
「え…?」
言っている意味がわからなかったけれど、酔いの回った頭を必死にフル回転させて、どうにか秀治の言葉を咀嚼する。
つまり秀治が言っているのは、こういうことらしかった。
正輝と私の友情は、周囲の人間の犠牲の上に成り立っている───。
「え?いや、そんな…」
「そんな…じゃないでしょ。萌香ちゃんが嫉妬しないために、莉乃は俺を紹介した。
…それってつまり、正輝くんと莉乃が2人きりで会うことは、社会的には誤解を招くような行為だっていう認識は、ちゃんと持ってるわけだよね」
「急にどうしたの?秀治ったら、またそんなややこしい話にして…」
答えに詰まった私は、曖昧な笑みでこの場を煙にまこうとする。だけど秀治の性格上、そんな作戦がうまくいくはずはないことは分かっていた。
秀治は私とは目を合わせずに、タクシーの車窓から流れる夜景を見つめながら言葉を続ける。
「萌香ちゃん、今日はかなり頑張ってたと思うよ。電話のふりして外の空気吸いに行ったりして、一生懸命笑顔作ってた。
…男女の友情はそうやって、“パートナーの我慢”という犠牲を伴うんだ。本当は、だれもゆるしてくれてはいないよ」
秀治も?もしかして、私と付き合ってる9年間…ずっとゆるしてくれてはいなかったの?
……とは、聞けなかった。突きつけられた現実が、あまりにも恐ろしくて。
だってそれまでの私は、まさか“そんな考え方”があるなんて想像すらできていなかったのだ。
男女間を“性”でしか考えられない人は、視野が狭くてナンセンス。
男女の友情に嫉妬する人は、人生が窮屈そう。
ちゃんと潔白であることを説明すれば、パートナーの理解は得られる──。
ずっとそう思ってきたし、秀治だって同じように考えを持っているものと思い込んでいた。
それがまさかずっと、ただひたすらに、我慢を強いてきた…?
「用事を思い出して。ちょっと一本電話してきます…」
そそくさとお店の外に飛び出して行った萌香ちゃんの細い肩が、揺れる髪が、強張った笑顔が、脳裏にありありとよみがえる。
― 彼女に面と向かって、「視野が狭くてナンセンス」だなんて言える?
そう自問する私の方こそ、なんという視野の狭さだったのだろう。
萌香ちゃんを──そして、もしかすると秀治を傷つけていた自分が、恥ずかしくて消えてしまいたい。
「着きましたよ。この辺で大丈夫ですか」
タクシーの運転手さんがそう声をかけてくれた時には、幸福な酔いはすっかり冷め切っていた。
この記事へのコメント
そういう態度が信じられない。9年もよく耐えたなぁ秀治さん。
なんか極端だなぁ〜それこそナンセンスだと思う。