このお店…『ニュイ』のお料理は、どれも絶品だった。
ブラータチーズも鴨胸のローストも、私の好みドンピシャ。
― 今度は、正輝くんとデートでも来たいな。
莉乃さんと秀治さんに失礼と知りつつもそんなことを考えてしまっていた矢先に、事件は起きた。
正輝のお気に入りだというメニュー、馬肉とマッシュルームのタルタルがテーブルに運ばれてきたのだ。
「私、取り分けますね」
莉乃さんに「いいのに」と恐縮されながらも、これくらいしかこの場に溶け込む方法を思いつかない私は、お料理を4枚の小皿に取り分ける。
ルビーのように美しい、ねっとりと柔らかい馬肉も。ふんだんに散りばめられた、新鮮な生のマッシュルームも。すべて均等に取り分けて全員の手元に届けた、その時だった。
「それでさ、俺も結局行くことにしたんだけど、萌香がその時…」
何気ない雑談をしながらも、フォークを持った正輝くんの手がすーっとテーブルの上に伸びていく。
そして、莉乃さんのお皿に届いたかと思うと…私が取り分けた莉乃さんの分のタルタルから、ごっそりとマッシュルームをさらっていったのだ。
「ちょ…っ。正輝くん、何してるの!?」
ぎょっとした私は、思わず正輝くんの二の腕にしがみついて制止した。
けれど当の正輝くんは一瞬キョトンとした顔を浮かべたかと思うと、ああ、と納得したような笑顔を私に向けて言ったのだ。
「莉乃は、生のマッシュルームあんまり得意じゃないんだよ。
…でさ、萌香と俺でお揃いで買うことにしたんだけど…」
まるで今起きたことになど誰も気づいていないかのように、3人は雑談を続けている。
あとに残されたのは、事態が全く飲み込めないまま言いようのない疎外感の海に放り込まれた私の、空っぽの笑顔だけだった。
― なに、今の。
正輝くんと莉乃さんの間に築かれた、まるで熟年夫婦のような暗黙のルール。
それをたった今目の前で見せつけられた私は、圧倒的な敗北感に打ちのめされてしまっていた。
そしてその衝撃は、私が必死に考えないように閉じ込めていた想像の檻を、完全に開け放ってしまってもいた。
莉乃さんと秀治さんは9年付き合っているっていうけど、だから、正輝くんは莉乃さんと友達やれてるんじゃないの?
正輝くんは、莉乃さんに彼氏がいるから仕方なく私と付き合ってるだけで、本当は莉乃さんが好きなんじゃないの?
莉乃さんと秀治さんは結婚してるわけでもないし、もしも莉乃さんが別れたら正輝くんは…莉乃さんに“行く”んじゃないの?
ゆるしがたい想像に襲われた私は、気がつくと弾かれたように席から立ち上がっていた。
「わ、どうしたの?萌香ちゃん。大丈夫?」
莉乃さんが、びっくりした顔で私を見つめる。
「ごめんなさい、用事を思い出して。ちょっと一本電話してきます」
いたたまれなくなった私はどうにか取り繕って、店の外へと逃げ出すのだった。
― どうしよう、私…。もしも正輝くんが、本当は莉乃さんのことが好きなんだったら…。
「莉乃さんとは、会わないでほしい」
「ヤキモチ妬いちゃうかも」なんていう遠回しな表現が伝わらなかった以上、そんな風にはっきりと口にしなくてはいけないのだろうか。
正輝くんは、やっと巡り会えた私の理想の人だ。絶対に諦めたくはない。
でも、莉乃さんみたいな素敵な人に、私が敵うわけがない。
だけど、これは中学生の恋愛じゃないのだ。大好きな人の人間関係に、自分の気分で難癖をつけるなんて…重い女以外の何者でもない。
そんな女は、莉乃さんとはまるで正反対のお子ちゃまだ。信頼できないと言っているようなものだし、きっと正輝くんを悲しませてしまう。
でも。だけど。でも。だけど…。
せっかく外の空気を吸いにくることができたというのに、頭の中はぐちゃぐちゃだった。
アスファルトから立ち上る昼の余熱が、混乱する気持ちをさらにヒートアップさせる。
― 私、どうしたらいいんだろう。
思わずしゃがみこみそうになってしまった、その時だった。
地面に落ちた私の影。その隣に、すっともう一つの人影が寄り添うのが見えた。
「あ…、秀治さん…」
私の隣に立っているのは、秀治さんだった。
どうやらタバコを吸いに来たらしい。住宅街の暗がりに、電子タバコのスイッチが点滅していた。
「電話、してないね」
「あ…はい。ワインが美味しいから、ちょっと酔っちゃったみたいで。外の空気吸ってました」
優しげな声で秀治さんのほうから話しかけてきたことは、意外だった。
秀治さんは、たしか35歳と言っただろうか。私よりも8歳も年上だし、物静かな人のようで、小一時間ご一緒していてもどんな人なのかが掴めない。
莉乃さんの横で静かに微笑んでいる姿はいかにも“大人の男”という感じでかっこよかったけれど…。
莉乃さんとは違って私と打ち解けようとする様子はまったく見えなかったから、正輝くんも莉乃さんもいない場所でこうしてふたりきりになってしまうのは想定外のことだった。
「あの…先に戻ってますね」
少し気まずくなった私は、正輝くんと莉乃さんについて色々と心配をすることは後にして、ひとまずこの場を去ろうとする。
だけど…そんな私の背中に、秀治さんはさらなる意外な言葉をかけるのだった。
「厄介だよなぁ。嫉妬や束縛なんて無粋なこと、だれもゆるしてくれないから──」
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思いがけず、秀治に本心を見抜かれていた萌香。一方、正輝の身に起きたのは…
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